東北の美しい海

東日本大震災から7年という月日が経とうとしていますが

震災について何かを書こうと思ったことは

これまでほとんどありませんでした。

 

感情が溢れてしまって文章が破綻する気がするし

言葉を紡ぐのにも思い出すのにも時間がかかるだろうし

読んでくださる方にとっても面白い話ではないだろうし

気軽に触れてはいけないことのような気もするし。

 

ですが不思議と

今なら気負わずに何かを書ける気がしたので

いつか使う日が来るかもしれないからと

記録のために残しておいたmixiの日記をもとに

あの時のことを思い返してみようと思いました。

 

何かひとつでもお読みいただく方の心に残って

大規模な災害への備えとなったり

前を向く気持ちにつながれば嬉しいです。

明日からは8年目。

このブログを書くにあたって、

震災や津波の犠牲となった方々のご冥福をお祈りいたします。

2011年 3月11日 14:46分

あの日、

ぼくは仙台市で暮らしていました。

 

突然海の方向から聞こえて来た

不気味で巨大な音に

これはなにかとんでもないことが起こる

と身構えた瞬間

どーんという衝撃と共に

地面が大きく揺れ始めました。

 

カフェでコーヒーを飲んでいたぼくは

とっさに机の下に身をかがめ

机の足にしがみつきましたが

その机ごと1mほど左右に振られ続けました。

机の中に体を隠すことも

起き上がることもできませんでした。

 

店内は崩れ落ちて割れるコーヒーカップの音や

女性の甲高い悲鳴が混じり

騒然としていました。

 

窓の外では道路がバキバキと音を立てて割れ

水道管が破裂し、水が噴き上がっていました。

 

地割れがこっちまで来たらどうなるんだ?

このビルは倒壊するかもしれない。

そうしたら1階にいるぼくたちは

どうやっても助からないだろうな。

 

あの時ぼくにできたことと言えば

早く地震が終わるよう願うことだけでした。

2011年 3月11日 帰宅まで

揺れが終わり外へ出ると

窓ガラスが割れた商店や

斜めになった建物

ひび割れだらけの道路が次々と目に入って来ました。

 

ふだんは美しい広瀬川の水も

台風後のように濁っていて

それが余計に恐怖を感じさせました。

 

会社まで戻る途中に実家があったので

寄ってみると、家の中は散々。

元の位置に留まっていたものは1つもありませんでした。

 

お仏壇だけ綺麗に戻す手伝いをしたのですが

その間も大きな余震が頻発していて

その度に家の外に避難の繰り返し。

会社に戻った頃には16時を過ぎていました。

 

すぐに帰宅するよう上司の指示を受け

仙台駅へ向かい始めると、

ペデストリアンデッキ周辺は

歩くのも困難なほど人で溢れていました。

 

家までは10kmほど離れていたので

交通機関に乗れたらと思っていたのですが

とても無理なことは一目で分かります。

仕方なく雪の中を歩いて帰りました。

 

今思えばよっぽど緊張していたのでしょうか。

少しも寒さを感じなかったな。

 

携帯は一切使えず

ラジオも当然持っていませんでしたから

この時はまだ、何が起こっているのか少しも知りませんでした。

 

ただ、まっすぐと仙台駅から東へ。

海の方向に歩いて帰りました。

2011年 3月11日 夜

18時を過ぎて薄暗がりの中

家の前を流れる川に差し掛かった時に

おかしいなと思ったんです。

橋の周辺だけ、

水が流れていったように濡れていました。

 

確かに雪は降っていましたが

路面をびしょびしょにするような雪質ではなかった。

 

疑問に感じながら橋の中腹に差し掛かった時に

川のど真ん中に留まっている異物が目に飛び込んで来ました。

 

二階建ての戸建住宅でした。

 

もしかして・・・、津波が来た・・・・!?

 

ここから海までは3~4kmも離れているのに!?

 

嫁は無事だろうか?家は??

 

何が起こっているんだ・・?

 

瞬時に色々な疑問が頭の中に湧き上がり、ぞっとしました。

あの時の気持ち悪い感覚はいまでも忘れられません。

 

急いで家に帰ると

あたり一面は水に濡れていましたが

建物は無事でした。

 

嫁が勤めていた病院も、嫁も無事でした。

 

病院では使えなくなった部屋が多数あったのか

安全管理のためなのか

多くの入院患者さんが廊下に敷いた布団にくるまりながら

不安そうな顔を浮かべていました。

 

20時近くになっても

携帯は相変わらず圏外でした。

 

いつ繋がってもいいように充電はしたい。

でも停電している。

 

ふと車で携帯が充電できることを思い出して

車に向かう道すがら

災害の時もラジオは使えるんだ!

ということを思い出しました。

充電よりもまずそっちが大切かもしれない。

 

そう思ってつけた車のラジオから流れて来たのは

東北の広範囲を津波が襲い

宮城県荒浜では200~300人のご遺体が見つかった

という、想像を遥かに超えたニュースでした。

 

しばらく呆然としてしまったのですが

ふと、目の前がとても明るく

時折チカチカと閃光が煌めいていることに気づきました。

 

停電しているのに、

なぜあそこだけこんなにも明るいのだろう?

 

この時はまだ知りませんでしたが

数Km先の石油施設が大火災を起こしていました。

 

しばらくして、一台の消防車が

この辺一体まで燃え広がる恐れがあるので

大切なものはすぐに持ち出せるようにしてください

と避難の呼びかけをしに来てくれました。

 

そうは言っても、

きっと全てが散乱している暗闇の室内から

何をどう探したらいいんだろう・・。

 

悩みましたが

燃えたら燃えたで仕方ない

と腹を括って病院へと戻りました。

 

するとロビーに人だかりができいました。

 

何事かな?と覗いてみると

非常電源のおかげでテレビが点いていたんです。

そこに映されていた光景の凄まじさには

言葉を失いました。

 

一方で、

ある程度の情報が入ってきたことが覚悟にもつながりました。

この日はカフェで飲んだコーヒー以降

1滴の水分も口にできていませんでしたが

自分たちが置かれている特殊な状況を理解できた途端

何も飲めていない、食べていないことなんて

些細なことのように思えてきました。

 

結局この日

ぼくが口にできたのは数本のタバコと

数粒のフリスクだけでした。

 

起きていても仕方ないのでとにかく眠ってしまおうと

布団もない病院の廊下に横たわってみましたが

目が冴えてしまって

ぜんぜん寝ることができなかった1日目でした。

 

ふと起きるたびに

公衆電話の受話器をとってみたものの

電話はいっこうに繋がりませんでした。

 

嫁のご両親が心配しているだろうなと思って

それだけが気がかりでした。

2011年 3月12日

6時半ころ、

眠れたのか眠れていないのか分からないような微睡みから目覚めました。

 

7時を過ぎると

看護師さんが入院患者と避難者に

朝食を配ってくださいました。
検尿の紙コップに

半分くらいまで入った冷たい白粥と

1口大の魚の切り身

紙パックのオレンジジュースでした。

10数時間ぶりに食べ物と飲み物を口にすることができ

本当に有り難かったです。

 

そのあとは病院にいてもやることが無いので

いったん家に帰ることに決めました。

太陽の光の下、

初めて全容を知ることとなった我が家の状況は

結構ショックでした・・。

台所では冷蔵庫と食器棚がそれぞれひっくり返っていました。

居間も酷い状況で、どちらも足の踏み場がありませんでした。

テレビが落ちなかったのはなんでだろう。

今でもすごく不思議でなりません。

停電で掃除機が使えないので、

ガラスの破片はホウキとコロコロで地道に集め続けました。

ある程度片付けたあとで、

まさか出るわけないよなあと思いながらも、

興味本位で蛇口をひねってみたんですね。

そうしたらなんと水が出ました!

濁ったりしているようには見えないし

ちょっと飲んでみたら大丈夫そう!

 

頭に浮かんだのは

さっき見つけたインスタントラーメンでした。

これを煮ることができればご飯にありつける!

そしてぼくは思い出したのです、七輪と炭の存在を!

さっそく駐車場に降りて炭をおこし、

お湯を沸かして、味噌ラーメンを煮込みました。

 

具は何も入れることができなかったのですが、

引っ張り出せた鰹節のパックを混ぜて食べたこのラーメン。

人生で一番美味しい食事でした。

午後は家の周りを車で散策したのですが

あまりの状況に愕然としました。

 

コンテナや漁具や家財道具などが

いたるところに転がっていて

まるで昨日までの町とは様相が変わってしまっていました。

それから

実家の様子を見に行こうと車を走らせたところ

途中の国道はそこかしこに亀裂や起伏ができている状態でした。

特に橋は橋桁がずれて隆起しているものが多く危なかった・・・。

実家はすっかり片付けが済んでいて、

いくらか食料もあったので

晩御飯だけご馳走になりました。

居間も酷い状況で、どちらも足の踏み場がありませんでした。

テレビが落ちなかったのはなんでだろう。

停電が続いていたので、

信号も街灯も点かない暗闇の中を戻り、また病院で1泊。

 

床は寒いし固いし、余震に何度も驚かされ

この晩もなかなか寝られませんでした。

 

朝方、

看護師さんが毛布を渡してくださったのですが

本当に白衣の天使のように見えました。

有り難かったなあ。

極限の状態は、人の優しさ、暖かさが身に染みました。

2011年 3月13日

嫁の誕生日だ!と思いながら朝6時ころ起きると

本人が目の前にいておにぎりをくれました。

嫁は発災から丸二日間働きづめ。

それなのにいつも通りの笑顔で

ああホントすごいなあと、心から感動しました。

 

嫁だけではなく、

他の看護師さんやお医者さんも

笑顔を絶やすことなく働き続けていて

医療に従事する方々の高潔さに

ただただ頭が下がる思いでした。

 

嫁はこの日の10時ころに勤務を終えて帰ってきました。

敬意を込めて、七輪インスタントラーメンを振る舞いました。

 

その横では、お隣さんが車を直そうとしています。

蒲生で水に浸かったんだそうです。

ぼくが住んでいた高砂という地区では

お店が全く空いていなくて

どこか買い物ができることころまで行きたいから直さなければと。

 

確かに、

もう食料がほとんど残っていないぼくらも

何か食料を得ることを考えなければいけない。

ひとまず、

市の中心部に近いぼくの実家に移動することにしました。

 

そうしたら、なんと、中心部には電気が点いていて!!

こんなに大きな災害にも関わらず

わずか2日で電気が戻るなんて・・・!

日本ってほんとうに凄い国だなと感じた瞬間でした。

 

19時ころに携帯の電波も回復。

数十人の友人からメールが来ていました。

嬉しかったです。

電気ストーブでひさびさに温かい夜を過ごしながら

せっせと返信しました。

 

日も変わる頃、ふと屋上へ出てみると

偶然父もそこにいて空を見上げていました。

 

空には見たことがないほど多くの星たちが輝いていて

電気が消えるとこれだけの星が現れるのか

と一緒に驚きました。

 

7年経った今でも、

この日以上に多くの星を見た夜はまだありません。

2011年 3月14日

嫁は再び仕事へ出るため、

朝の七時ころに実家を出て病院まで送りました。

 

次は24時間勤務するシフトだそうで、

それを聞いた時は全く頭が上がりませんでした。

ぼくは嫁を送った後、家の片づけの続きを。

 

そうしたらこの家はプロパンなのでガスが出るよと

隣の方がガスの回復の仕方を教えてくださいました!!

おかげでお昼はカップラーメンを食べることができました。

 

停電はしているけれど、携帯の電波も稀に入る。

なんだか少しづつ戻って行く日常にほっとしました。

 

と思ったのもつかの間、急に外が騒がしくなりました。

消防車のサイレンがけたたましい轟音を立てて走り去って行く。

何台も何台も。

 

燃え続けている石油工場への増援なのだろうか?

とのんびり眺めていたら

嫁から「あと10分くらいで津波くるって、逃げて」

というメールが届きました。

 

メールが送られたのは5分前。

つまり残っているのはあと、たったの5分?

ここにいたら死ぬかもしれない!?

 

体の中が、かっと熱くなるのを感じました。

膝はカクカク笑っていました。

 

とにかく急いで車に飛び乗るも

表道路は大渋滞でどうしようもない状況でした。

 

パニックになりかけた時、

一台のトラックが合流を許してくれて

そのおかげ裏道を迂回することができ

なんとか嫁の病院まで辿りつけました。

 

急いで階段を駆け上がって。

汗がびっしょり・・・。

 

病院では何人かが携帯テレビを持ち込んでいて

そのうちの1つを一緒に眺めてさせていただきました。

ヘリから、今から津波が来ると言われている海を捉えた映像です。

みんな緊張していました。

 

10分後、

「誤報でした」というアナウンスが病院内に鳴り響いた時

そこかしこから安堵の声が漏れました。

でももし、これが本当に正しい情報だったとしたら。

 

妻がメールを送ってくれなければ

ぼくは危なかったかもしれないし

稀に入る電波がたまたまタイミング良くメールを拾ってくれたのも奇跡だし

うちの前の道で道を譲ってくれた

トラックのドライバーさんの存在も奇跡だし

あることないこと、

色んなことが頭のなかに湧いて来て

動悸が止まりませんでした。

 

その後、

近くのスーパーが空いていると聞いたので行ってみましたが

コーンの缶詰などの保存食しか売っておらず、少しがっかり。

選んでいる状況ではないので買いましたけれど。

 

夕方、シフトが変更になり

嫁の勤務が急に終わりとなりました。

しかも次の出勤は17日で良いとのこと。

高砂は相変わらず停電でしたので

暗闇の中で荷物をまとめ、実家へ避難しました。

 

実家ではティファールで沸かしたお湯で

頭を流すことができました。

11日からワックスがつきっぱなしだったので嬉しかったなあ。

そして家にはもう新聞も届いていました。

日本ってなんてすごいんだ。。。

瓦礫の中、裸足で涙を流す女性の写真から、

なぜかどうしても目を離すことができませんでした。

2011年 3月15日

この日は食料を確保するため早朝から仙台朝市へ。

朝市では肉以外の全てを買うことができ

大げさではなく天国かと思いました。

他の店は3時間も4時間も並んだって何も買えないのに

まぐろの刺身まであったんですよ!

10,000円分くらいの食材を購入して、

近所の親戚へも配りました。

 

家に帰ってテレビをつけると

原発が爆発したことについてのニュースばかり。

外へ出ていいのか、だめなのかが分からずとても不安でした。

 

その閉塞感を紛らわすように

家にあったボード版の人生ゲーム

をプレイしてみたところ

なんだかとても楽しかった・・・。

 

トランプでババ抜きもしました。

ゲームも再終盤に迫った頃

母が颯爽と2枚のカードを放り投げました。

よく見ると、2枚ともババです。

これじゃババ抜きが成立しないじゃん!?(笑)

 

思わずみんなで声を上げて笑いました。

非日常の中に生まれたほっと和らぐ瞬間に

つかの間の幸せを感じました。

2011年3月16日

この日は、

母の友達へ飲料水を届けてくれないかと相談されました。

実家からは少し離れた場所でした。

 

車のガソリンはもう残り半分以下。

今後補給できる見通しもなかったので断りました。

ただ、その後、自己嫌悪を感じました。

 

車がだめなら自転車に乗せて持って行ってあげてもいいかも

歩いても、行こうと思えば、行けないことはないよね。

でも、母の友達だから、ぼくには直接関係ないよね。

 

非常事態だから自分のことを優先したほうがいいと思う自分も

非常事態だからみんなで分けあってがんばろうと思う自分も

原発のことがあったので、

外に出るのが恐かった自分もいました。

今の自分だったら、どうするかなあ。

2011年 3月17日

嫁が出勤のため再び朝から病院へ。

道路を走る車が顕著に増加していました。

しかも県外ナンバーの車がとても多い!

 

世の中は復興に向けて動き始めている

ありがたいなと感じたのを覚えています。

 

ぼくは夕方に終わる嫁の仕事を待つため

それまで家の掃除でもと思っていたのですが

外は雪が舞いとても寒い日でした。

ぼくの家の近辺はまだ停電でしたので

暖を取る方法がなく・・・。

 

そこで予定を変更して、

近くの小学校で先生をしている友達

の陣中見舞いに行きました。

 

彼は発災から丸1週間小学校に寝泊まりをして

避難所となった体育館の運営をしていました。

 

お互いの1週間を報告をしあいましたが、

質が違い過ぎて恥ずかしくなったのを覚えています。

 

彼に地域住民への貢献について敬意を伝えると

「税金もらってるから当たり前なんだけどさー」

とカラカラと笑っていて

ぼくはその笑顔の中に

とても美しいものを感じました。

 

そうしたら

何もせずに「じゃあオレ帰るわ!」

なんて言えない気がしてきて

彼を2時間ほど手伝ってから小学校を後にしました。

 

嫁も、友人も、

この非常事態に自分を差し出して貢献している。

ぼくは何もしていない。

それでいいのだろうか?

 

という燻った気持ちの存在に気づいたのはこの日でした。

そしてそれは後々もずっと

ぼくに問いかけて来ることになります。

これでいいのか?復興のためにおまえは何をしたんだ?と。

 

きっと、嫁と彼の存在がなければ、

復興支援の仕事をしようとは思わなかった。

 

夜には別の友達が

ガソリン引換券を2枚入手したという連絡をくれました。

 

ただ自分は勤務があるから給油できない。

1枚譲る代わりに、給油してきてくれないか?と。

 

はい、喜んで!

このころガソリンは何時間並んでも給油できる見込みが感じられず

途方に暮れていたところでした。

人のご縁に感謝でした。

2011年 3月18日

この日は7時半からガソリンスタンドに並びに行きました。

給油できるのは引換券を持っている人限定で

開店は10時からでしたが

早く行くことに越したことはないと思ったのです。

案の定、スタンドについたら既に2㎞程の列が・・・。

 

でもすんなり給油できたんです!

中には引換券を持ってないけど

ダメ元で並んでみた人もいたようでした。

 

給油は1台につき20リットル限定でしたが

冗談じゃなく、心は満タンになりました。

続いて友人の車で並び直して再度給油を。

 

その帰り道、

なんと西田賀の花月が開店しているではないですか!

こんなに早く店を開けることができるなんて・・・。

ラーメン、すごく美味しかったです!

 

午後には隣町のボクシングジムが

シャワーを貸し出したとの情報が届きました

そういえばお風呂には一週間入っていませんでしたので

早速出かけることにしました。

 

このころ、

実家は電気が来ているけれどガスと水が止まっていて

ぼくの家は電気が止まっているけれど

水とガスはOKというちぐはぐな状態でした。

 

ガスコンロは電池だから着火できるけど

お風呂は電気が止まっているために起動できなかったんです。

 

早速ジムに行ってみると一時間待ちでしたが

シャワーで体を流すことができました!

15分で1,000円は高いなと思ったけど

言葉にならないくらいめっちゃ気持ちいい!!

 

ただ、シャワーを浴びてからすぐに、

今まで嗅いだ事のない強烈なにおいが流れて行きました・・・。

 

驚いて足元を見てみると

体から滴る水滴が泥水のように茶色いんです。

1週間お風呂に入らないとこうなるのかと

びっくりした瞬間でした。

 

信じれられないかもしれませんが

極限の状態で過ごした毎日だったので

自分自身の体臭も

家族の体臭も

ほとんど気になりませんでした。

 

シャワーで流してみて

こんなに臭かったの・・・?

と心から驚きました。

あとがき

以上が、ぼくの震災後の1週間でした。

 

1週目に感じたことは今でも鮮明に覚えているのに

次の週からはだいぶ記憶が曖昧です。

 

この次に記憶が濃く思い出されるのは、

震災から数週間が経ってから

海沿いの状況を視察に行った時のことです。

 

荒浜近くの干潟では海鳥がのんびりとくつろぎ

陽光が青い海をキラキラに輝かせていました。

 

記憶に残るテレビの中の真っ黒な海と

いま眼下に広がる美しい海とが同じものとは思えず

どう折り合いをつけたらいいのか戸惑ったことを覚えています。

 

ただ、

よくよく考えてみると、自分の中にも

人を優しく受け入れることができる性質と

人を攻撃し傷つける性質とが共存しています。

 

ぼくはどちらでありたいか。

考えないわけには行きませんでした。

 

洋輔という名前のとおり

広く人を助けることができる人でありたい。

 

そう思い、

ぼくはリクルートを退社することに決めました。

その後のことは、他の記事でご紹介している通りです。

 

この記事は2018年3月10日に

アメブロに投稿したものを

2019年10月10日にこちらへ移植しました。

 

震災から8年が経ちますが

それでもなおあの日のことや

震災で失ったものは忘れることができません。

 

それが今でもぼくの原動力になっています。

 

相内 洋輔

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