リクルートで『ダメ社員』のレッテルを貼られた私が転職して生まれ変わった話し

ワークショップデザイナーの相内です。仙台を拠点にワークショップの企画運営やファシリテーション、コーチングなど、人が前進するための場作りを行うことを生業としており、最近は特に組織開発のご依頼を多くいただいています。

今は独立をしている私ですが、初めての社会人経験はリクルートで積ませていただきました。2008年から約5年間、SUUMOの広告を営業していたのです。部活の全国大会で優勝! といった偉業や、有名な大学の学位、TOEIC900点などに象徴される分かりやすい看板が無かった私にとって、リクルート入社が与えてくれた喜びと自信は大きなものでした。

ですが、リクルート時代の私は、本当にしょぼかった。その一言に尽きます。

この記事ではリクルートで行き詰っていた私が、転職して再生した経験を綴ります。いまの職場を辞めるべきか、新しい環境でチャレンジすべきか悩んでいる方に、こんなケースもあるんだなぁと読んでいただけたら嬉しいです。

文中に当時の上司や、同僚とのやり取りについて記載がありますが、決して誰かを批判する意図でこの記事を書いているわけではありませんので、この点に関してはどうか誤解のなきよう読んでいただけますと有難いです。

目次

プロローグ

リクルートでの生活が4年目を過ぎた頃。思い描いていたキラキラのリクルートライフとは程遠い、カビ臭くジメジメした毎日に終止符を打つべく、私はリクルートを辞める決意をしました。

在籍中は、リクルート社員はめちゃくちゃスゴイ! という世間のイメージと、自分の働きぶりとのギャップによく悩まされました。

リクルートってことは仕事できるんでしょ?

私の知り合いの〇〇さんって人もすごい優秀!

営業が得意なんだよな!頼もしいねぇ!

どこに行っても食べて行けるね!

オレらの出世頭だな!

周囲の人たちからこんな風に声をかけられるたび、顔が引きつっていたことが懐かしく思われます。だって私、全然すごくなかったんです。リクルートで全く売れてなかった。

リクルートに在籍し続けていてもまるで明るい未来が想像できない私でしたが、それでも辞めるまでは相当迷いました。

リクルートの商品を売れない男が他で営業など務まるのか?

辞めたらこのクラスの企業には二度と入社できないのではないか?

次でもだめだったら立ち直れないのでは?

と不安な気持ちに支配された自分もいました。

でも一方で、私が輝く場所はここにはない。でも私が輝ける場所がこの世界には必ずある! と確信している自分もいました。毎日やることなすことボッコボコに否定されるような状況だったにも関わらず、輝く未来を疑いなく想っている自分もいるなんて、不思議ですよね。でも、その感覚は間違いではありませんでした。

10年間のストーリーになるので少し長いのですが、もしご興味があれば最後までお付き合いください。

リクルートへの切符

2007年のことです。私は就活の時期を迎え困り果てていました。それまでの大学生活では、キャンプの運営、バイト、硬式野球、飲み会に明け暮れ、お世辞にも勉学に真面目な学生とは言えませんでした。そのため進路について真剣に考えたことがなく、どれだけの会社の情報を眺めても、特にやりたいことが見つからなかったんです。

悩みに悩んだ結果、どんな条件の会社だったら入りたいか?から考えてみることにしました。

  • 給料が高い
  • 成長が見込める
  • 年功序列ではない
  • やりたいことが見つかった時に転職しやすい

すると、こうした項目が浮かんできました。これらを軸に会社を探したところ、リクルートという会社に辿り着いたんです。リクルートのことをネットで検索してみると、人材輩出企業、リクルート大学などと呼ばれ、初任給はなんと破格の29万円! 若くして新規事業立ち上げを任されたり、役職が付くこともレアではなく、大半の社員が早いうちに転職・独立をするといった情報がたくさん書いてありました。

おおーー、ゼッタイここがいいーーー! 受からなかったらバックパッカーになって世界一周しようっ♪

私はそんなノリで、リクルートだけを受けることに決めました。10年経って振り返ると、恐るべき軽さと勢いです。当時リクルートはたまたま地方採用に力を入れていた年で、私は東北地区のインターン枠を勝ち取ることができました。そして1ヶ月に渡る実務を経て、とんとん拍子に内定をゲット!

あんたなんかがリクルートみたいな大企業に受かるわけないと言っていた母の鼻を明かすことができたし、学内では1番早い内定だったし、あの時は有頂天でした。私の未来は希望に満ち溢れているこれで大丈夫だと妄信していました。

羽毛布団に包まれ育った新入社員時代

初の赴任地は岡山で、担当業務は不動産広告の営業でした。私は首都圏勤務を希望していましたし、我が家が不動産の借金で破産しかけていたため、不動産領域には配属希望を出していませんでした。どうしても抵抗感があったんです。何一つ希望とは違う配属に、地方出身だから期待されていないんだろうなぁとがっかりしたのを覚えています。唯一の楽しみだったのは、初めての西日本での暮らしでした。

住宅領域に配属された全社員が集まった新人研修では、営業ロープレで一番に受注をあげるなど順調な滑り出し! 岡山の先輩方もすごく可愛がってくださりました。キレイなお姉さんがいるお店へと足しげく連れて行ってくれたり、「見知らぬ土地で寂しいだろ?」と土日に代わる代わる連れ出してくれ、全く退屈するヒマがない毎日でした。

岡山チームは良い意味で牧歌的な風土で、営業の合間にみんなで集まってお茶を飲んだり、夜は2~3日に1度は誰かしらとお酒をご一緒させていただきました。毎週開催していた仕事後のフットサルも最高に楽しかったです。一緒に配属された同期の存在にも勇気づけられ、何度も助けてもらいました。営業を抜け出して観戦したWBCの決勝戦は、勝利の瞬間に抱き合ったっけ! 青臭いことを語り合ったり、朝まで飲んだり、本当にいい相棒と出会うことができ、感謝が尽きません。お客さんも優しい方ばかりで、定期的にお伺いして談笑したり、掲載する物件の庭に生えている雑草を一緒にむしったりして、大きなストレスもトラブルなくお仕事をさせていただくことができました。

だから正直、岡山にいた頃は、あまり営業計画を立てたことがありませんでした。リクルートの文化であるヨミ会も、岡山ではほとんど行われていませんでした。

※ヨミ会とは受注見込み金額を共有し、以降の営業活動をクライアント毎に細分化し宣言する営業会議のこと。ヨミ表と呼ばれるシートに各クライアントへ営業する商品と受注確度、金額を入力して臨む。

そんな感じでぬくぬくと1年半。羽毛布団に包まれているかのような環境で育てていた抱きました。他の拠点から異動してくる先輩は口を揃えて、この環境に浸らないほうがいいぞと忠告してくれていました。実感は湧かなかったけれど、それなら早めに出たほうがいいのかなという想いもあったし、いよいよ実家の借金事情や両親の夫婦関係が困難を極め、結婚を前提に大学2年生から付き合っていた彼女(妻)にフラれたりと、身辺の変化も激しく、このまま岡山に留まることに疑問を持ち始めていました。

仙台に転勤するか、東京に転勤するか、退職するか。それで当時の営業部長に実家が慌ただしい状況にあることを相談したら、私の将来を深く考えてくださり、仙台支社への転勤を手配してくださいました。その代わりしっかり働けよ! と。この計らいを粋に感じて、部長の顔に泥を塗らないためにもしっかりやろう! 表彰されて恩返しをしよう! と胸に誓いました。

岡山で暮らした新人時代

どん底を味わった仙台での3年

ところが仙台で過ごした3年間は散々な日々でした。

転勤した仙台で配属されたのは賃貸広告の領域。これまでは売買領域の担当だったので馴染みのない領域でした。にもかかわらず商品とサイトの大リニューアル期で覚えることが山ほどありました。扱う商品数の激増に加えて、旧商品と新商品を対比して覚えなければならず大変でした…。

かつ、岡山の時と比べクライアント数が3倍になりました。にも関わらず、引継ぎをしてくれた前任2名がすぐに退職してしまったのです。私のクライアントに詳しい方がいなくなったため、身近に相談できる人もいません。しかも、大リニューアル期だった仙台チームは毎日ヨミ会を開催していたのです。これはリクルート的には驚くことでもないのですが、当時の私には衝撃でした。なぜって、私はヨミ会のお作法がよくわからなかったからです。岡山で一切経験してないから。でも仙台のメンバーからしたら、当然ヨミ会のイロハは知ってるに決まっていると思ったことでしょう。ヨミ会はリクルート文化の根幹ですから。

その商品はなんで受注できると思ったの?

ヨミの確度合ってるの?

ダメ元で営業だけする場合は別欄に入力して?

その規模のクライアントならもっと大胆に営業できない?

ヨミ会では、私が口を開く度に指摘が止まりませんでした。これには本当に気が滅入りました。中でもクライアントのことホントに知ってるの? (知らないよね? 何してるの?)というご指摘が一番きつかったです。

「一回引継ぎに行って、15分ほど挨拶をしただけですから、知っているわけないと思いませんか?」と心から言いたかったのですが、ヨミ会って、クライアントの物件数、反響数、売り上げ、目標、などなどをつぶさに把握したうえで営業計画を宣言する場なんです。そうやって個々人のヨミを積み上げて、チーム全体の目標を達成できるかモニタリングをしているので、知らないじゃ済まされないのは私もよく分かっていました。

知らなかったらヒアリングに行くしかない。でも大リニューアル期だったため、毎日新商品を営業するためのアポイントが5~7件は必ず入っていて、ヒアリングのためだけにお客さんを回る時間はありませんでした。また、当時は帰社したら翌日のアポの提案資料を作るのが日課になっていました。これは各社それぞれ内容が異なりますので、アポイントの件数分の提案書が必要でした。作った提案書は、先輩営業に確認していただき、提案の根拠を必ず問われます。上述したように、私はクライアントの状況を断片的にしか把握できていなかったので、言葉に詰まり大変でした。この頃は毎日9時から22時過ぎまではデフォルトで働き、心身共に疲弊感が凄まじかったのを覚えています。

でも、自分のプライドが邪魔をして、この時は「分かりません」とか、「助けてください」って、あんまり周囲に伝えることができていませんでした。この時に素直に、できません、わかりませんって言えていたら、リクルートでの人生がもっと楽しくなっていたかもしれないなと思います。

こうした日々が3~4ヶ月経った頃、身体に異変が起こりました。携帯電話や、申込書に書いてある文字が読めなくなったんです……。ピントが合わないというか、文字があるのは分かるのですが、それらを文字として認識できなくなりました。そのため申込書の記入ミスが多発。もらい直しで再訪しなければならないクライアントが増え、ますます自分の首を締めました。これも当時は、会社の人には言えませんでした。

結局、大した成果を上げることができないまま、転勤から半年後に部署異動となることが決まりました。

これ以上ない惨めな船出でした。

惨めな船出

異動に次ぐ異動

異動した先は新築戸建ての広告を扱う部署で、こちらも初めて担当する領域でした。新築領域はクライアント数も物件数も、賃貸領域と比べると格段に少ないため、以前にも増してクライアントの動向を精緻に把握しておく必要がありました。でないと広告出稿を持ちかけるタイミングを簡単に逸するからです。

しかし、またしても転勤で去ってしまう人からの引継ぎであったため、相談できる方が側にいない状況でした。異動して初めてのヨミ会。「このクライアントはどうなってるの?」という上司からの質問に、「引き継ぎしてもらったばかりなのでまだあまり分かりません」と正直に答えたら、「いつになったら分かるんだよ? 明日までに分かれよ!」と怒気を含んだ上司の切り返しが飛んできました。

え…? この部署どんだけ体育会系…? やばいとこに来てしまったぞこれ…と、意気消沈したことを覚えています。今となれば、私も私で、もう少し言い方・しのぎ方があったと思います。

こうしたやりとりがあって萎縮していた矢先、同じチームの同僚が体調を崩してしまい休職。代打で同僚のお客様も担当することになりました。つまり、クライアントが二倍になりました。同僚は突然会社に来られなくなったので、今度は引き継ぎすらありません。それでも上司からの労いの言葉やサポートなどは特になく、「どうなってんの? なんで知らないの? いつになったら分かるの?」とヨミ会の度に叱責を受けました。

前述したように、こうした状況を引き起こしていた背景には、私の基礎能力の不足や、仕事と向き合う姿勢が全くイケてなかったことが大きな要因だったと反省しているのですが、とはいえクライアントを知るための時間や機会は本当に足りなかったし、成績はさっぱり上がらないし、売れないから楽しくないし、ただただ苦しい負のループでした。そしてまた半年が経ったころ、驚くことに再度、部署の異動を命ぜられました。1年半で3つ目の部署です。

賃貸・戸建てと、立て続けに馴染みがない領域を扱いしんどかった部分もあるだろうからと、これからの活躍を意図して以前担当していた売買領域に移してもらったのですが、むしろ気が狂いそうでした。またクライアントとの関係を0から築かなければならないのにはもうウンザリで、同じお客さんと腰を据えてじっくり付き合いたい、せっかく少しずつ分かってきたのに…という気持ちが強く残りました。

上司の配慮とは裏腹に、異動を前向きには受け取れませんでした。

鬱々としたリクルートでの日々

空転する毎日

気持ちが前を向いていないのですから、当然、売買領域に移ってからも成績は一向に奮いませんでした。前任の実績を下回らないようにキープすること、ギリギリ目標達を成することで精一杯でした。この頃にはもうすっかり、「あいつはできない奴だ」というレッテルを部署中から貼られていました。先輩には一挙手一投足、揚げ足を取られていじられました。あれは悔しかった。

周囲からは変わり者扱いされ、いつかipadよりすげー商品を作るんだろう?  (当時発売されたばかりだった)、人事はなんでお前のこと採用したんだろうな? 俺なら絶対取らないわ、嫁さんが可愛いから会社で失敗しても気にならないんだろ? などと上司にからかわれたこともありました。私のパフォーマンスがかなり低空飛行だったことは差し引いても、あの時に投げかけられた言葉のいくつかは、今の時代だったら……。

それでも当時の私は、居場所が全く無いよりは幾分かマシだ。いじられなくなったら本当に終わり、むしろ笑いに変えてくれて有難いと自分に言い聞かせて過ごしていました。だからせめて、人間関係だけは切れないようにしなければと、飲み会や行事はほとんど断らずに参加しました。飲み会では酒が進むに連れて上司からのいじりか、説教が始まるのがお決まりで、私は作り笑いを浮かべヘラヘラする他にできることがありませんでした。卑屈な毎日でした。

リクルート時代の写真

会社の飲み会での一枚。バカをやることで居場所を得なければと思ってた

後輩からは、相内さんってできない言い訳を探す天才ですよね! それをできる理由を探すほうに使ったらすごいのにね! と皮肉を言われたこともありました。瞬間的にぶん殴ってやろうかと思いました。車の運転中じゃなかったら、つかみかかったかもしれない。でも身に覚えがありすぎて、ちょっと頭が冷えた後は、返す言葉がありませんでした。コイツうまいこと言うなあと。

営業部長との定期面談ではこんなこともありました。1時間びっちりお話ししてくださったことを余すことなくメモしたら、メモすることに夢中になってしまい、結局何を言わんとされているのか、つかみ損ねてしまったんです。それで、次回はメモを取らずに聴くことに集中し、話しが終わってからまとめる方法を試してみることにしました。自分なりにPDCAを回してみていたんです。ところがその面談の終わりに「質問はある?」と聞かれたことに対して、既に部長が話してくださったことについて質問をしてしまいました。その瞬間、部長は烈火のごとく怒り始めました。

「メモを取らずに聴いているからそうなるんだろ?」「クライアントのところでもそんな仕事の仕方してるから売れないんだろ?」

いや、メモは普段から、取りすぎるくらい取っていて…。それで調度良い塩梅を自分なりに探っているところで…。

言いたかったけど、言えませんでした。この頃は色々と負のループにハマりすぎてて、本当にどうしたらいいかわかんなかった。後にも先にも、この当時ほど霧の中を彷徨っているような感覚は味わったことがありません。どこまでが自責で、どこからが環境要因で、どこまでが自分でやりきれる範囲で、どこからが頼るべき範囲なのかも、ほとんど判断がつかなくなっていました。

やらかしてしまったエピソードをもう少し紹介すると、上司とのmtgにてメールをプロジェクターに投影したら、その上司の悪口を、同僚と面白おかしく送り合っていた一通を開いてしまい、場が凍ったこともありました。その時はさすがに、うどうなってもいいかなって、何か言われたら逆切れしようと瞬時に腹をくくりました。身から出た錆なので、大変にダサい覚悟なのですが……。上司は一瞬、眉間にシワがよっていたように思います。幸いにして、上司が大人の対応をしてくださり、見なかったことにしていただけたので、その場では何も起こりませんでしたが、今振り返れば、なんて卑怯で軽率な行いだったのだろうと反省しかありません。

こんな具合で、やることなすこと空回り。次第に、リクルートに私の居場所はないんだなということを、嫌でも認めなければならなくなって来ていました。自分の心の中には、燃やせる材料もほとんど残っていませんでした。ただ人よりお金が欲しい。リクルート で実現したかったのは、突き詰めるとこの一点だけだったんですよね。

気力が湧かず、毎朝なんとかベッドから這い出て、普段は聴かないようなポップな音楽を聴いて無理やり気持ちを上げて……。(AKB48の大声ダイヤモンドをたくさん聴いたなぁ)

腐っていく自分

色々と書いてきましたが、これらの悲惨な結果の多くは、ダメダメだった自分自身の至らなさから生じていたのは間違いありません。あり方も人格も能力も本当に未熟でした。でも、あの環境でよく頑張っていたなあとも思うんですよね。リクルートでの日々は、不運な巡り合わせが多すぎたように感じます。

でも長い視点で個人のキャリアを見つめ返してみると、ここで超だめだったことが、想像もつかないレールを走り出すために必要な助走期間だったとも思うんです。そう考えると、むしろあの日々を過ごせたことは、自分の人生にとって大きな価値があることで、とても幸運だったとも。

脱出へ向けた葛藤

話を戻しますと、リクルートでの私はこんな調子だったので、もう当然辞めたくて仕方ありませんでした。このレッテルの中では健全にいられないし、腐り切る前に抜け出さないと人生が終わってしまう。でも他の部署へ異動希望を出したところで採ってもらえる気がしない。自分の仕事力を冷静に見つめたら他で通用するとも思えない。もしうまく転職できたとしても、リクルート出身なのにこんな程度なの? とがっかりさせてしまい居場所がなくなるんじゃないか。八方ふさがりじゃん…。

それならいっそ脱サラでもするかと、つてを辿って居酒屋の経営を考えました。まずは試しにと一晩シフトに入らせてもらった居酒屋の仕事は、想像していたより遥かに大変で、そのうえ私にとっては退屈でした。居酒屋をオープンして脱サラする目論見はたった1晩で霧散、自分の浅はかさにほとほと呆れました。

異動も申告できない。転職する勇気もない。脱サラする気概もない。それでもまだ何か、イージーな手段が残っているのではないかと、現実を扱わず妄想にふけるばかりでした。人生そのものを小手先でなんとかしようとしても、うまくはいかないのに。

2011年の初春、いよいよ進退窮まって来て、辞める決断をするのが早いか、辞めろと圧力をかけられるのが早いか、瀬戸際のタイミングでした。最後通告を突きつけられるだろうことを覚悟した部長面談の直前、東日本大震災が起こりました。

震災後に変わった仕事との向き合い方

震災の爪痕が残る4月の初旬頃、住宅広告を担当していた私は、同僚と一緒に、宮城県内の沿岸部を南から北に向かって車を走らせていました。沿岸部の被害がどんな状況だったかを確かめるためです。真っ黒な土、ガレキの山、壊れた家屋、本来海に浮かんでいるべき船や漁具、ご遺体が見つかった場所を示す蛍光テープ。

見慣れた町は跡形もありませんでした。

そうした凄惨な被害状況が横たわっていたにも関わらず、干潟にかかった橋から見下ろした太平洋は、陽光に照らされた水面がキラキラと輝き、海鳥たちは優雅に空を舞っていました。自分が滞在している被災地との恐ろしいほどのギャップに、行き場のない怒りと畏れを抱き、自然と涙が溢れてきました。

あの瞬間は、自分にとってターニングポイントだったように思います。津波で家を失くされた方に1つでも多く住宅の広告を届ける。この意図でクライアントと接することを決め、広告の掲載を求め頭を下げて回りました。自分の中からすっかり消えていた熱意が、蘇って来たのでした。

給料が上がったら嬉しいなー、などという私利私欲にまみれた自分ではない、新たな自分でのリスタートでした。

ある夜の転機

それから数カ月は、以前とは打って変わって仕事に打ち込みました。サイトのリニューアルも控えていたため、休日も先輩と一緒に営業ロープレを作成したり、広告集めに没頭。そしてそれが、私が宮城の復興に貢献できることの1つだと信じていました。ただ、社内での評価は相変わらずでした。そのため、気持ちに火がついた自分がいる一方で、リクルートで長く働き続けるイメージは持つことができずにいました。

そんなある日のこと。仕事を終えて帰宅し、ソファーに腰掛けながらビールの蓋を開けて、おもむろにテレビの電源を点けました。流れて来たニュースには震災復興の様子が映っていました。

東日本大震災はすごい災害で、大変だったんだよ

もし自分たちに子どもが生まれて、分別がつく年頃になったならば、きっとそうやって防災の備えを諭すんだろうな。そんな想像を巡らせていた時のことでした。まだ見ぬ子どもが突然、頭の中で、私に問いかけてきたんです。

「そんなに大変な被害だったんだ。じゃあお父さんは、復興のために何をしたの?」と。予想もしていなかった投げかけだったので本当に衝撃でした。

このまま年が経ったときに、私はまだ見ぬ子どもに胸を張って、お父さんは復興に力を尽くしたと言えるのだろうか。広告を届けるだけで終わっていいのか。未曽有の災害を前に立ち上がらなくていいのか。今のような関わり方では、想いを半ばに命を絶たれた友人や、妹のようにかわいがってきた後輩に、申し訳が立たないのではないか?

自問を重ねた結果、私はリクルートから離れることを決意しました。もっと震災復興に積極的に関わらない限り、自分を納得させることができないと、気づいてしまったからです。

悔いを残さない旅立ちのデザイン

とは言え、リクルートを辞めるのは後ろ髪を引かれる思いでした。こんなにチャンスに溢れた会社で、これだけ強い媒体にも関わらず、まだなにも成し遂げてない。この事実が、とても恥ずべきことに感じられたのです。何かと目をかけてくださっていた先輩も、「いつかお前はリクルートを辞めるだろうけど、それまでに必ず、自分がやったんだと人に誇れる仕事を残せ。それが今後の人生を生きる活力になるから!」と口を酸っぱくして諭してくださっていました。

リクルートに入社した証を残してから辞める。そのためにできることは何か?

転職の前に、このテーマと向き合わなくてはならない。私は覚悟を決めました。

これまで広告出稿が無かった大手クライアントとのアカウントを開設しよう。そして、その成果を持って、胸を張ってリクルートを去ろうと思ったのです。それから先輩の力をお借りしながら約半年をかけて丁寧に信頼を築き、情報を提供し、クライアントの懐に入れるよう努めました。最初は門前払いだったクライアントが、次第に私のことを信頼してくださり、提案を聞いて下さるようになった変化がとても嬉しく、最後にしてようやく、営業のなんたるかが理解できました。

そうしてクライアントから大量の受注をいただけた日は感無量でした。歴代の営業マンが関係を結ぶことができなかったクライアントから出稿をいただくことができたのです。ダメ営業マンとレッテルを貼られていた、私が。

歴史に残るターニングポイントだったと表現しても過言ではない受注だったと個人的には思っていますが、残念ながら表彰台には上がることが出来ませんでした。受注のちょうど2~3カ月前に部全体の注力商品がシフトして、私が受注に成功した商品たちの価値が著しく低下してしまったんです。

私が書いたコピーが営業部の標語に採用されたりとか、

採用された標語

お客さんへ提案した企画書のユニークさを表彰されたりはしたんですけど

企画書アイディア賞

営業MVPだけは取れませんでした。

5年もいて表彰台に上がれなかったリクルート社員なんているの?? そんなやつお前ぐらいだよって隣の部署の上司に冷笑され続けていたので、せめて1度くらいMVPを獲得してみたかったのですが、これで心を残さずに次へ行けると思えた受注だったので、自分としては大満足でした。先輩の金言や、数々のサポートには感謝しかありません。もしやり切らずに尻尾を巻いて逃げ出していたなら、きっとリクルート時代のことを何一つ誇れない人生になってしまっていただろうと思うんです。

キャリアアドバイザーとの出会い

こうして私は、初めての転職へと舵を切りました。自社の転職サイトを使うのは抵抗があったので、こっそりと他社サイトに登録をしました。ただ、時間をかけて自分のプロフィールを入力し、掲載されていた求人を何社も読み漁りましたが、どれもピンときませんし、どういう軸で検索をしたらいいのかも分かりませんでした。なにせ掲載社数がものすごい! まずは営業で成果を出すことにのみフォーカスしていて、次の進路を考え抜いていなかった私は、早速行き詰まりかけてしまいました。

ですが幸いなことに、あるサイトのキャリアアドバイザーの方からすぐに連絡をいただくことができ、「どんな会社、業界に転職したいんですか?」と希望の仕事や転職時期などを丁寧にヒアリングしていただいたんです。そこで高揚気味に、「復興のために、世の中のために貢献できる仕事をしたいです! 職種は問いません!」と告げた瞬間の「えっ・・!?」という驚きが漏れたような反応は、今も忘れられません。リクルートからの転職ですから、もっと野心的なステップアップをご想像されていたのでしょうね。私のオーダーは、たぶん担当の方をかなり困らせただろうと思います。

ですが1週間もしないうちに20社ほどのリストを送っていただ句ことができたのです。この速さには感動でしたし、CSR活動が盛んな会社や、事業自体が社会の安定的な繁栄に直結している会社など、たくさんの可能性を提示してくださったことをとても嬉しく感じました。今思えばですが、私の自己評価や業績の実態はさておき、リクルートの若手社員という肩書きには、それなりに市場価値があったのだろうと思います。

私はいただいたリストの中に、1社、異彩を放っている会社を見つけました。それが私の人生を大きく変えることになった、公益財団法人東日本大震災復興支援財団との出会いでした。私は財団が掲げている、震災復興を通じて、子ども達が夢と希望を育む環境を実現するというビジョンに心から共感しました。それこそが、自分が今最も従事したい仕事であると思ったのです。すぐに面接の希望をお伝えしました。

キャリアドバイザーの方は面接対策まで親身になって付き合ってくださり、とても心強かったのを覚えています。自分一人では言葉にできていなかった想いや背景の言語化も助けてくださいました。そうして臨んだ面接では、最後に、「君はこの会社でどんな機会を創り出し、その機会で自分をどう変える?」と問われました。どきっとしました。ピンときた方はかなりのリクルート通ですね。「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」はリクルートの社訓なんです。

東日本大震災復興支援財団の上司は、偶然にもリクルートのOBでした。見えない力に導き合わせていただいたかのようなご縁に驚きましたが、そうした影響もあってか、無事に内定をいただくことができました。リクルートと比べて年収は150万円ほど下がりましたし、震災復興の支援というつかみどろこのない仕事は、キャリアにとってプラスとなるのか、マイナスとなるのか、全く想像することもできませんでしたが、私は財団に飛び込むことを決めました。27歳の秋のことでした。妻を始め、背中を押してくれた家族や友人には感謝が尽きません。

リクルートの最終出社日となった2012年12月、仙石線の車窓から見える陽射しは、まるでこの日を祝福してくれているかのようで、いつもよりもキラキラ光って見えました。イヤホンから流れて来たのはMr.Children「終わりなき旅」。思わず涙腺が熱くなったことを今でも覚えています。

終わりなき旅

180°好転した財団に入ってからの人生!

私はこうして転職をし、結果からお伝えすると人生が180°好転しました

ただ、財団に入ってからの毎日は、決してバラ色でイージーな道のりだったわけではありません。営業しかしたことのない私の狭い経験はあまり財団業務に活かすことができず、仕事の基礎力もプロフェッショナルな先輩方に比べてお子様のようなレベルでした。被災地に暮らしていたのにも関わらず、被災された方々がどんな思いでどんな日々を過ごしているか、そうした方を支えている方々がどれだけの覚悟で向き合っているのかも、全然知らなかったんだなということを突きつけられました。リクルート出身なんだからもっとやれると思った、という上司からの率直なフィードバックももらいました。復興の役に立ちたいと転職してきたのに、何の役にも立てていない。それが悔しくて、電車を降りてから家までの帰り道で、よく涙を流しながら歩きました。

ですが、できることを徹底的にやる! できていないことは身に付ける! と腹を括って、誰よりも現場を知ろうと、毎週、東北各地を回りました。並行して、教養や知識を増やすため、年に100冊の本を読み続けました。自分自身のお金儲けを意図していた時は、目の前の壁を乗り越えようとする力が湧いてこなかったのですが、震災の復興という大きな目標に対しては、自然と少しでも役に立ちたいと思えたのです。そのためには、自分の地力を高めるしかありませんでした。

こうした取組みが徐々に実って、1年も立つ頃には内外からの信頼が高まり、担当していたNPO団体への助成金事業や、スポーツを通じた若者育成の事業で、徐々に重要な仕事を任せていただく機会が増えました! 先輩方の指導は、「リクルート時代よりも厳しい……」と感じることもありましたが、東北の復興のために、そして私自身の成長のために妥協せず接してくださっていることがよく感じられ、やり甲斐と成長実感を抱きながら毎日を過ごすことができました。

そうして更に半年後には、新規事業の企画立案を任せていただく機会に恵まれました。リクルート時代に憧れていた「新規事業」を自分が立ち上げられるなんて想像してもいなかったので、本当に、世界がガラッと変わったことを実感させていただきました。そうして私は、東北の次世代を担う若者を育成するための事業、ユースアクション東北を立ち上げました。自ら復興に貢献したいと思っている東北の若者の地域活動を、活動費の助成と、活動をサポートできる大人をマッチングするという2方向から支える事業です。この事業では、最終的に3年をかけて70名を越える大人をネットワークし、毎年200人弱の高校生が大人と出会える機会を提供してきました。

また、この事業を起こしたことがきっかけでSoftBank社に兼務出向となり、ユースアクション東北と同じ目的で実施しているTOMODACHIサマーソフトバンク・リーダーシップ・プログラムを4年間担当させていただくという、大きな機会をいただくことができました。そのうち3年間は生徒と一緒に渡米し、真夏のサンフランシスコの陽射しを浴びながら、彼ら、彼女たちのブレイクスルーを見守ってきたことは、私にとって誇りであり、良き人生の思い出です。まさか仕事で海外出張まで体験できるとは思っても見ませんでした! この時教えていただいた自己理解のためのワークは今でもよく使わせてもらっており、たくさんの人の人生に違いを作ってくれています。

アメリカでワークショップをリード

そして何より大きな転機となったのが、私はこれらの事業を通じて、大学4年生ぶりにワークショップの運営に携わったことです! 水を得た魚とはまさにこのことで、運営していてとにかく楽しかったし、アイディアは次から次へと湧いてくるし、自分のワークショップが生み出す効果にも興奮しました!

しかも、参加してくださった大人の方々が、口々に私のワークショップを褒めてくれました。

ワークショップでご飯を食べていけるよ! これは絶対究めるべき!

ずっとリクルート時代のコンプレックスに悩んで来た私にとって、こうした言葉は震えるほど嬉しかったです。外部のパートナーからも厚い信頼をいただき、次第に他社が主催する合宿の企画運営をを任されたり、シンポジウムでの講演やパネラー登壇、ファシリテーションなども日常的になりました。

モデレーターとして参加したパネルディスカッション

また、財団に入って5年が経った頃には、もともと400人ほどだったFacebookの友達が2,000人を越えていました。本当にたくさんの人と出会い、仕事を通じて同じ時間を過ごしたことで、たくさんの刺激をいただきました。まさに、人に磨いていただいた5年間だったと思います。リクルートの5年間ですっかり失っていた自信は、年を追うごとにどんどん取り返すことができました。

若者の前進を応援するために、もっと自分にできることを増やしたくて通い始めたコミュニケーションとコーチングの講座では、自分のOSを丸ごとアップデートするほどの、濃厚な学びをいただきました。そして、尊敬する師や仲間が、全国にたくさん増えました。この講座に通ったおかげで、人が自分の意図に沿って自由に前進できるよう応援するという自分自身の人生の軸も、見つけることができました。

そしてまさかの独立へ!

こうした日々を経て、私は33歳で独立を決めました。これは、ひとつの会社の中にいては取り組める仕事の幅が限定的すぎると感じ、窮屈になったためです。リクルート時代は『ダメ社員』とレッテルを貼られていた私が、独立は人生のタブーだと思い続けてきた私が、転職後たった5年間で自営業者になっているとは、夢にも思いませんでした。こうして振り返って見るとリクルート時代からは想像もできなかった未来に立っていることに、自分自身がとても驚いています。

有難いことに、独立後は財団で培った人脈やご縁のおかげで一度も自分から営業をすることなく仕事を依頼いただいています。もちろんリクルートに在籍していたという効果もとても大きいです。この看板が信頼感の増加に繋がっていることは間違いがなく、リクルートで働く機会をいただけたことには感謝が尽きません。加えて、リクルート内では思うような結果こそ出せなかったものの、リクルートの文化で揉まれた経験は大きな財産になっています。リクルートには圧倒的に突き抜けたプロが至る所にいました。そうした人たちが何を観て、どこまでやり切るのかを間近で見てきたことで、「当たり前の基準」が何段階も高まりました

リクルートを退職する際は、当時の上司が、東日本大震災復興支援財団の発起人である孫正義さんにも、面と向かって自分の意見を主張する覚悟と背景を持って仕事に望め! と激励のメッセージをくださったのが、そのいい例です。これもひとつのリクルート基準だと思います。おかげで高い視座を持って仕事と向き合うことができました。社会人のスタートを切った会社で、高い視座と気構えを学ばせていただいたのは貴重な経験でした。

もしリクルートの当たり前に興味を持たれた方は、こちらの本を読んでみてください。リクルートの文化がよく感じられると思います。

新天地での日々を通じて、私の人生は嘘のように好転しましたが、冒頭にも書いた通り転職前はたくさんの不安がありました。

通用するだろうか?

→しませんでした。

財団が解散した後、一般企業へ再就職できるだろうか?

→しませんでした。

でもたくさんの人たちに支えられてなんとかやってこれたし、想像もしていなかった出会いや成長、機会や感動の連続でした。今はあの時に勇気を出して、未来を創るための行動を起こした自分を、たくさんたくさん褒めてあげたい気持ちです。リクルートで通用しなかったらどこに行ってもだめだ…とびびってたけど、そんなことはありませんでした。今振り返って考えて見ると、環境が変わり、自分も変われば、起こる結果も変わるのが自然なことだと思います。

だから必要以上に恐れなくても良かったなって。

輝く場所を探しているあなたへ

以上が私の体験です。この文章を最後まで読んでくださったということは、あなたも人生のステージを変えるべきかどうか、迷っているのでしょうか? それともリクルートへの入社を考えているのでしょうか? 入社を考えているなら、ぜひリクルートの中で揉まれてみることをオススメします。これほど真摯に人と向き合っている会社、真剣に未来を考えている会社は、他にそうないと思うのです。華々しい成果を上げることは叶いませんでしたが、リクルートで過ごすことができたことは、私の誇りです。

退職を考えているということでしたら、私はあなたの事情を知らないので、無責任なことは言えません。ですが私個人の体験だけを語るのであれば、勇気を出して一歩踏み出し、新しい場所で自己研鑽を積み、ご縁に恵まれたことで、それまでとは真逆の評価や結果、想像もしていなかった未来を手にすることができました。戦うステージを変えるということは、これまで全く想像もしていなかった未来につながる可能性を秘めています。だからあなたにも、新たな場所で幸運が訪れる可能性は大いにあると思います。そしてこの世界のどこかには、あなたが輝ける場が必ずあるはずだと、思うのです。

私にとってリクルート時代の思い出は暗く、記憶から消したい、誰にも話したくない、リクルートの人に会いたくない、人生最大の汚点とフタをして過ごしていた時期も長かったのですが、あの日々があったおかげで、今、私の世界は格段に拡がっています。そして私は、できればいつかまた、リクルートと一緒にお仕事をさせていただきく機会に恵まれることを期待しています。そうして少しでもリクルート社へ恩をお返しすることができたら、これに勝る喜びはないと思うからです。それが独立してからの、1つの目標になっています。

ここまで、長文をお読みいただきありがとうございました。

リクルートで関わってくださった方々や、東日本大震災復興支援財団とソフトバンクでご縁をいただいた方々、この記事を書くきっかけをくれた方へ感謝を込めて、結びとさせていただきます。

対話をもっとおもしろく。

相内 洋輔

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