「鬼滅のアクアカールみさきちゃん」から考えさせられた女性活躍の未来

「みさきちゃんは薔薇の呼吸を使ってメルちゃんを倒すんだよ!!」

我が家のアクアカールみさきちゃんが鬼殺隊の一員となったのは週末の昼下がりだった。みさきちゃんはリカちゃんのお友達。容姿端麗なファッションドールである。腕や脚は真っ白で、ぽっきりと折れてしまいそうなくらいに華奢だ。

 

ところがこの日、お化粧に使う手鏡やお洒落なカバンがよく似合うであろうみさきちゃんの手には、5歳の娘がストローで作った日輪刀がしっかりと握らされていた。蛇柱の伊黒さんと、ヘビの鏑丸の関係を模して、首には白蛇も巻かれている。こうして出し抜けに誕生した鬼滅のアクアカールみさきちゃんは、自重の3倍はゆうにありそうなメルちゃん人形に戦いを挑んでいた。

その光景を見て「鬼滅の刃……、恐るべし……」と思った。

 

私には2歳年下の妹がいる。まだお互いが小さかった頃、私はガンプラに、妹はシルバニアファミリーにそれぞれハマった。お菓子が梱包された小綺麗な箱が手に入った時は、シルバニアのおうちに合う家具を作ってあげ、興奮する妹に兄貴風を吹かせたものだった。

 

しかし一度たりとて、お互いの世界線を越えて混じり合ったことはなかったと思う。ガンプラをシルバニアファミリーのベッドに寝かせたこともなければ、リスやウサギとお茶会に興じた記憶もない。もちろん、シルバニアファミリーが乗ったピクニックワゴンをビームライフルで撃ち抜くなどということもなかった。

 

そう言えば、同級生の女の子たちにはよくセーラームーンごっこに付き合わされた。女の子たちがセーラ戦士に扮して、妖魔となった男子を月に代わってお仕置きする遊びだ。

 

5年ほど前の小学生男子にとって「セーラームーン見てる?」という質問は、「いつまでおねしょしていた?」「好きな女の子誰?」などと並び、最も聞かれたくない問いの一つだった。少なくとも私の小学校では、セーラームーンは女子が見るべきコンテンツであり、男子が見るのは非常に恥ずかしいという固定観念が一般化していたからだ。

 

そのためセーラームーンとの距離感については、「姉妹がいるから家でたまたま流れてる」と正当化をする者、「見てない」と言い張る者、「見ている」と潔く告げ変人扱いされる者など、様々なパターンがあった。私はもちろん、妹の存在を言い訳にしたタイプである。
ここでもセーラームーンに混じって孫悟空がかめはめはを放ったり、南光太郎がライダーキックをお見舞いするなどの、異世界間交流が生まれることはなかった。(もしそんなことをしたら二度とセーラムーンごっこにはお呼びがかからなかったはずだ)

 

昔を振り返ってみると、私が幼少期を過ごした昭和の終盤から平成の序盤にかけては、異質なものどうしが交わることを、あまり良しとしない空気があったように感じる。定年まで一つの会社で勤め上げるのが美徳とされてきた時代だったから、コミュニティに属する全員が同質であることを徹底し、和を乱しかねない異物は排除せんとする意識が社会全体に強く働いていた時代だったのではないかと推測する。
男子は黒、女子は赤のランドセルしか選べなかった時代に、真っ青なボディに黄色のアクセントパーツが散りばめられたランドセルを背負っていた私にとっては、息苦しいことこの上ない日々だった。

話を娘に戻す。鬼滅のみさきちゃんで遊ぶ娘を見た私は、どうして鬼滅の刃がこんなにも5歳女児のハートをつかみ離さないのか知りたくなり、尋ねてみることにした。娘にはアニメの一話目を見せたことがあるが、怖いと言って途中から視聴できなかった。それ以来原作に触れたことはない。普通ならそのまま嫌いになりそうなものである。

 

だが、娘は栗花落カナヲの髪飾りと同じ色形のヘアピンや、田舎のばあちゃんが手縫いしてくれた炭治郎柄のマスクをいたく気に入っているし、保育園の友達から聞きかじった知識を毎日披露してくれるくらい鬼滅の刃が好きだ。もちろん、LiSAの紅蓮華も大好きだ。

「鬼滅の刃のどんなところが好き?」

「強いところだよ!」

 

そこ〜〜? 予想もしてない回答に私は驚いてしまった。てっきり甘露寺蜜璃や胡蝶しのぶなど、カワイイ女性キャラに惹かれているのだろうと思っていたからだ。興味が湧き、もう一つ質問を重ねてみたくなった。

 

「どうして強いのが好きなの?」

「カッコいいからだよ!!」

「あ、そうなんだ。カッコいいのとカワイイのは、どっちが好き?」

「カッコいいのも、カワイイのも、どっちもだいじだよ!!!」

霹靂一閃。娘の回答はまさに雷の如く、私を貫いた。そうか。令和の時代を生きるあなたには、カッコいいも、カワイイも、どちらも大事なのか。目から鱗だった。

 

だがよく考えてみると、彼女たちがカッコよさと、カワイさのどちらも大切だと思うのは、ごく自然なことかもしれない。グッズ売上が毎年100億円前後で推移している「プリキュア」という巨大コンテンツが彼女たちのバイブルとなっているからだ。プリキュアに出てくる登場人物は、もれなく全員がカッコいい。中でもHUGっと!プリキュアのキュアエール、野乃はなのカッコよさは格別である。

 

「ここで逃げたら、カッコ悪い。そんなの……、私がなりたい野乃はなじゃない!!!」巨大な敵を前に叫ぶ小さな野乃はなの姿を見て、ちょっぴり泣きそうになった大人は私だけではないと思う。彼女たちの逞しい姿に感化された娘は「私は絶対に諦めない!」とよく絶叫している (本当に譲らないのでたまには諦めて欲しい)

 

また、プリキュアは女児にとってカッコよさのロールモデルであると同時に、最初のファッションリーダーでもある。娘は初めての美容室でキュアミルキーの髪型をリクエストし、毎日嬉しそうに鏡を眺めていた。服のセレクトもプリキュアっぽいかどうかが一つの基準になっている。プリキュアみたいにカッコいい、プリキュアみたいにカワイイという概念は、娘のスタンスと意志決定において重要な尺度になっているのがよく分かるし、これからもその感性と共に成長していくんだろうと思う。

 

 

さて、ここで考えなければいけない。我々の社会は、カッコいい自分を実現したいと思っている女性を尊重する準備が整っているだろうか?

 

日本では「女性の活躍」がテーマに掲げられて久しいが、女性の活躍を示す指標が先進国の中で軒並み下位に沈んでいるという事実は多くの日本人が認識しているし、もちろん私もその一人だ。

 

これまで私は、女性の活躍というテーマにおいて問題となっているのは、女性を取り巻く環境だと捉えていた。優秀な女性であっても育休からの復職後はなかなか役職につけないとか、家事との両立で時間がないとか、ロールモデルとなる上司がいないとか、そういった類のことだ。しかし娘との会話を通じて私は、女性に向けられる「周囲からの期待」もまた、女性の活躍を阻害する一因となっているのではないかとハッとさせられた。

 

残念ながら「女性は愛嬌。ニコニコさえしてくれていればそれでけっこう」という期待を隠さない昭和タイプの上司が蔓延る企業や、「お金はオレが稼ぐから、お前は家のことをしっかりこなしてくれ」と要求をする夫はまだまだ多い。恥ずかしながら私自身も、全くそうでないとは言い切れない。現在の日本社会で、女性にカッコよさを期待している人は少数派であるとすら思う。
こうした社会へ娘が飛び込んでいくのだとしたら、旧態依然とした女性への期待に、酷く失望することになるだろう。親として、それではいけないと思った。

 

数年前に『LEAN IN 女性、仕事、リーダへの意欲』を読了した時、女性がキャリアを積み上げることの難しさや葛藤をまざまざと見せつけられ、私はショックを覚えた。でも、女性の働きやすさ向上に関して、自分から何かアクションしようとまでは思えなかった。結局のところ、どこか遠くの他人事だったからだ。

 

しかし、自分の娘のこととなると話は別だ。いま、紅蓮華のイントロが頭の中でリフレインしている。彼女が社会に羽ばたく時には、カッコいいも、カワイイも、自由に追求できる世の中を手渡してあげたい。多様性を認め、お互いの目標を尊重し、応援しあえる社会へ招待したい。鬼滅のアクアカールみさきちゃんと過ごした休日の数十分間は、私にこうしたことを決意させるに充分な時間だった。
長く続いてきた社会の当たり前にパラダイムシフトを起こすのは簡単ではない。鬼滅の刃に喩えるなら、ラスボスの無残様に挑むようなものだ。

 

でも鬼滅の刃という作品は、心を燃やし続け、仲間と共に進むことの力強さを 、ありありと見せてくれた。だからもし共感してくれる人がいたら、一緒にがんばりたいと思う。娘を含め、これからを生きる若者が、自分の意図に沿って自由に前進できる世界を目指して。

 

相内洋輔

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