自己理解のワークショップで大事なのは「輪郭」の強調

ワークショップデザイナーの相内洋輔です。

以前、ある自己理解のワークショップを見学したとき、少し気になる場面がありました。参加者の方が人生のつらい時期を静かに話してくださっているのに、運営者の方が「その体験から何を学びましたか?」「だからこそ、あなたは〜〜なんですよね!」と、畳み掛けるように問いを重ねていたのです。参加者の方は、少し表情を曇らせながら「……うーん、そうなんですかね」と、どこか他人事のような返し方をしていました。

悪意は、まったくないのです。むしろ、参加者に大事な発見を持ち帰ってほしいという、誠実な気持ちからくる関わりだったと思います。それでも、あの場の空気はどこか重くて、見ていて胸が痛かったのを覚えています。

自己理解の場をつくる側は、えてして「参加者に何かを持ち帰ってもらわなければ」という気持ちが強くなりすぎてしまうことがあります。今日はそのことについて、少し丁寧に考えてみたいと思います。

目次

「コアを掘り当てよう」という焦りの正体

自己理解のワークショップを運営する方の多くは、こんな信念をお持ちのように見えます。「その人の中心にある価値観さえ見つかれば行動が変わる。だから原体験を深掘りすることが大切だ」と。

この考え方自体は、間違っていません。人は強烈な体験から影響を受けますし、そこに価値観の芽が宿っていることもあります。

ただ、この前提が強くなりすぎると、運営者の姿勢が変わってきます。「なんとか意味のある発見を届けなければ」というプレッシャーが、「聴く」という行為をいつの間にか「詰める」に変えてしまうのです。

モチベーショングラフ(人生を時系列で振り返り、感情の起伏をグラフ化するワーク)などを使って人生のハイライト・ローライトを見つけ、そこに「しめた!」とばかりに質問を集中させる。「その時どんなことを感じた?」「その体験から何を学んだ?」「だからこそ、あなたは〜〜なんですね!」……。

善意からくる行動であることはわかるのですが、これではショベルカーで相手の内面をゴリゴリと掘り起こすようなものです。初対面の人ばかりが集まる場で、そんなふうに心のガードを崩されたら、参加者はどう感じるでしょうか。

以前お会いした運営者の方の中には、「学生は自分のことなんてわからないんだから、口の中に手を突っ込んで、無理矢理にでも語らせることが大事だ」とおっしゃっている方もいました。さすがに驚いて、しばらく言葉が出ませんでした。この方のワークショップで潰されてしまう参加者が何人いるのか、心配になったのを覚えています。

価値観は「点」ではなく、「積み重ね」の中にある

私が思うに、人の価値観というのは、強烈な一つの体験によって形成されるものではありません。日々の小さな出来事が、ゆっくりと時間をかけて積み重なった末に、ある日ふとした瞬間に「あ、これが自分にとって大事なことだったんだ」と輪郭を帯びてくるものだと思うのです。

私自身の話をすると、高校生のころ、実家の経営の問題で非常につらい時期がありました。昼休みになると部室に隠れ、一人でご飯を食べていました。楽しそうに笑っている同級生たちと一緒にいるのが、どうしても辛かったのです。

モチベーショングラフで言えば、圧倒的なマイナス。「深掘り好き」の運営者が見たら、間違いなく狙いを定めてくる体験です。

でも、私がその時期に意味づけができたのは、30歳前後になってからでした。あの体験そのものから直接、何かの答えが生まれたわけではありません。その後に積み重なったさまざまな出来事、出会い、対話、失敗……それらと混ざり合って、やっと意味のある体験になったのです。

ですから、2〜3時間のワークショップで参加者の芯を掘り当てようとすることが、いかに難しいか。というより、そもそも「掘り当てる」というイメージ自体が、的を外しているのかもしれません。

自己理解の場で本当に大事な「輪郭を強調する」という関わり方

では、自己理解のワークショップで運営者がすべきことは何でしょうか。私が大切にしているのは「輪郭を強調する」という関わり方です。

参加者の中には、すでに気持ちや感覚が存在しています。ただ、まだ言葉になっていない。ぼんやりとしていて、自分でもよく見えていない状態です。運営者の仕事は、そこに新しいものを注入することではなく、すでにあるものの輪郭をそっと浮かび上がらせることだと思っています。

そのためには、場の安心感が何より大切です。誰にも強制されず、自分のペースで内面を探索できる。そういう場に人は自然体でいられます。自然体でいられた時にこそ、参加者は「あ、こんなことを感じていたんだ」という発見に、自分の力でたどり着けるのです。

運営者が力んで掘り進めるのではなく、参加者自身が歩みを進められるよう、そっと脇に立っている。「聴く」とは、本来そういうことではないでしょうか。

良かれと思って前のめりになるほど、誰かを傷つけてしまう。それが「悪意のない暴力」と呼ばれるものの正体だと、私は思っています。

自己理解の場で輝く参加者を見たいなら、まず運営者自身が力を抜くこと。それが最初の一歩なのです。

対話をもっとおもしろく。

相内 洋輔

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