ワークショップは適切にデザインすればすごく面白いし価値を生み出せる
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WORKSHOP LANDの相内洋輔(あいない ようすけ)です。私は2018年に独立をして、仙台市を拠点に東北の各地でワークショップを開催しています。
東日本大震災後の東北では、地震の被害にあった地域を中心に、たくさんのワークショップが実施されてきました。未曾有の災害だっただけに、復興の過程では多くの対話が求められました。
こうした一連のワークショップが高評価であれば嬉しい限りなのですが、残念ながら私がワークショップデザイナーであることを名乗ると、「あんなものには意味がなかった」と面と向かって批判されることが度々あります。
確かに、震災直後はなんでもかんでもワークショップと銘打って、機能する場作りを行うための適切なスキルやスタンスを持っていない方々がワークショップ風の何かを提供していました。住民の意見を聞いたというポーズだけは取っておきたい、という思惑が透けて見える場も多々あったと聞いています。
そうしたワークショップからは何も生まれなくて当たり前です。これらの低いレベルを基準にして、ワークショップには意味がない、と思われるのは本当に悔しいんですよね。中には素晴らしいワークショップだってたくさんあったはずです。
私は、ワークショップは面白い、ワークショップは新しい発見がある、ワークショップに参加するのが好きだ、と思っている人がメジャーな日本にしたいと常々思っています。
そこでこの記事では、素晴らしいワークショップがもっともっと増えることを意図して、ワークショップはNO、と言い切る人々が感じている「ワークショップが無価値だと思う理由」をご紹介させていただきます。
結論ありきの開催
まず初めに取り上げるのが「結論ありき」でのワークショップ開催です。
本来ワークショップとは、参加者どうしの対話から新しい方針やアクションが生み出されるものです。ですが、主催者の中では落とし所が事前に決まっていて、その結論へと誘導するためだけにワークショップが開かれることがあります。
こうしたケースでは、参加者の意見から創発が生まれることより、ワークショップを開催したという事実が重要で、主催者にとって都合の良い意見が優先されます。参加者は自分たちの意見を反映できる期待を膨らませて場に集りますが、蓋を開けてみると、もう結論は決まっていることに気づき失望するのです。これはコミュニティデザインのワークショップでも、組織開発のワークショップでも同様です。
このような主催者の意図は、巧妙に隠しているようで、参加者にモロバレです。当然参加者は、ワークショップ終了後に「こんなことに付き合わされるなんて時間の無駄だ。来なければ良かった」と憤慨することになります。
人は誰もが自分の時間を生きています。ワークショップに参加するということは、大袈裟に言えば、自分の命を使うということです。命を使って集まっていただく人々に、主催者側が既に持っている結論を押し付けるなんて、とてもとても失礼な話だと、私は強く思うのです。
無理やりな自己開示
ワークショップが嫌いだ、二度と参加したくない、とお感じになっている方にお話を聞くと、上位の理由にランクインするのが「無理やり自己開示をさせられて嫌だった」です。きわめてパーソナルな体験や、センシティブな思い出を語るように強要された際の苦痛が、トラウマになってしまっているのです。これはワークショップデザインに不慣れであったり、ファシリテーションのセンスが備わっていない方がリードする場でよく起こります。
ワークショップではお互いの個人的なストーリーや価値観を分かち合うことをトリガーにして、新たな何かが生み出されるものです。ですからまずは参加者それぞれが感じていることや、体験してきたことを持ち出していただくことから始めることが重要ですが、不慣れな方ほど、ここでできる限りの自己開示をさせようと躍起になってしまいがちです。さながら『北風と太陽』の寓話に出てくる北風のように、自己開示しろーーー、自己開示しろーーー、というメッセージを、陰に陽に発信してしまうのです。
自己開示には勇気が要ります。誰しも自分のことを語る時は、震えてしまうものです。特に、とても辛い体験、例えば震災の体験を語っていただくような時などはなおさらで、運営者はどれだけ注意に注意を重ねても不足はありません。
こうした背景から、私はワークショップで自己開示をしていただく際は、話せることまで、話したいことまででOK、ということを徹底してアナウンスし、自己開示を強要しない場作りの重要性を説いています。
無理に体験や考えを引き出そうとしなくても、個人個人が話したいと思える層までの自己開示で、ワークショップは十分に機能します。人の心の繊細さに寄り添おうとせず、乱暴に自己開示を求める行為、ワークショップデザインやファシリテーションを、私は許容しません。
好き勝手に話してお終い
ワークショップにたくさん参加された経験のある方からは、たびたび「ワークショップってその場は盛り上がるけど、後から振り返ると何も生まれていない」という感想を教えていただきます。これも、もうワークショップには参加しない、開催しないと思わせるには十分な理由の1つです。
ワークショップは日常の中に非日常の空間を作り出します。ハレとケで言うところの、ハレです。
非日常的な空間の中では、とても活発に意見交換がなされ、時間を忘れて盛り上がることもしばしばです。それゆえ日常へと戻った瞬間に大きなギャップを感じ、盛り上がった気持ちが萎んでいってしまうという作用が起こるのは自然な現象だと思います。ワークショップ後に明確な行動プランが用意されていなかったり、人間関係の継続が見込めないような終わり方をした会はひとしおです。
こうした事態を避けるために、主催者や運営者は事前・最中・最後でそれぞれに対策をしておく必要があります。事前の対策としては、ただ話して終わるだけのワークショップデザインを避けること。1回だけのワークショップだったとしても、未来での行動が喚起されるような工夫をできる限り意識し、盛り込むことです。
最中には、ワークショップ後の展望をメッセージし続け、この対話はただ流れて消えるのではなく、ちゃんと未来につながるんだ、という手応えを参加者に持っていただくファシリテーションを実践することです。
最後は、今日の成果を適切にまとめ、この対話がコミュニティや組織の前進にどう貢献するのかを明示すること。そして今後のアクションを示唆しエンパワーメントすることです。
こうした配慮を重ねて、未来につながる場作りをしなければ、なかなかワークショップは評価されません。
※中には「たくさん話せた」ことが満足感につながることや、とにかく話し合うことが目的のワークショップもあるので、全部のケースに当てはまるわけではありません
使い古された問い
最後に取り上げるのが、問いの新鮮さについてです。ワークショップでは多くの場合、何らかの問いが提示され、対話を展開していきます。この問いが参加者にとって新鮮で、かつ丁度良い難易度である時、ワークショップは最高に盛り上がります。チクセントミハイの提唱するフロー状態です。
一方で、使い古された問い、既に答えが考え尽くされた問いなどが提示された時には、参加者の対話意欲が一気に消滅します。またこの問いかよ、もう散々話したよ、という気持ちが湧いてしまうのです。
例えばコミュニティデザインを扱う場では「私たちが地域のためにできることは何か?」といった問いは王道中の王道ですが、それだけにワークショップに参加した回数が多ければ多い方ほど、他で既にこうした問いと出会っている可能性が非常に高いです。特に地域の中でワークショップを開催する場合は、キープレイヤーとして招かれる方が固定化されていることが多く、似たような対話を頻繁に経験してしまっています。
この問いに至るまでのプロセスが独特で、かつ他のワークショップとはまったく異なる対話が生まれそうだとしたら、こうしたオーソドックスな問いも機能します。あるいは、会のまとめとして最後に提示するパターンなどは悪くありません。
ですが多くの場合、王道的な問いは「この問いを提示しておけば概ね問題ないだろう」と消極的な理由で選ばれているか、時間がないなどの理由で、考えることを放棄した結果として選ばれているように感じます。
ワークショップデザイナーは、このような使い古された、何の変哲もない問いに甘んじるべきではありません。なぜなら問いの精度が低いのは、ワークショップの質が低いのと同義だからです。
ある問いが提示されただけで、場にパラダイムシフトが起こる。
参加者の満足度や未来のために、こうした問いを練る手間を惜しむべきではないのです。
ワークショップは面白いし価値がある
私はワークショップは面白いし、ワークショップでの対話から新しい未来が創造されると確信しています。だから、ワークショップって意味がないよね、と言われるのは悲しいんですよね。
私は機能するワークショップを日本の文化にしたいと思っています。だから今日は、ちょっとだけ語気を強めに書かせていただきました。こうした発信を通じて、少しでも日本のワークショップの底上げに貢献できたら幸いです。
今日はここまで。
対話をもっとおもしろく。
相内 洋輔
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