渓流釣りを始め「センスは後天的に磨かれる」と学んだ話

コロナでワークショップの仕事が激減した一年前。不安を抱えながら暇を持て余して過ごすのは精神衛生に最悪だと思い、密にならない世界へ救いを求め、渓流釣りを始めました。

 

ところが渓流ときたら……。想像していた美しい世界とは裏腹に、クモやヒルなどの不快な虫、熊やヘビなどの恐ろしい動物、もし滑落したら即死で間違いない崖や滝壺など、常に死の危険と隣り合わせの過酷な山界でした。

 

ズルズルっと斜面を滑り落ちる時の制御不能なカラダ、崖が崩れて周囲を押し潰している巨木や巨石、気付いたら後にも先にも進めなくなっている険しい山道…。思い出しただけで身がすくむのですが、こうした大怪我や遭難がすぐ側に存在する世界なのに、渓流では携帯の電波が一切入りません。何か不測の事態が起こっても、助けを呼ぶことさえできないのです。

下界の安全に浸りきっていた初心者の私には、渓流はリラックスできる場所では全くなく、ただただ「怖い」場所でした。次第に私は、渓流を「修行の地」と呼ぶようになり、「今日は修行に行くから…」と震えながら山へ向かうようになりました。いま娘と別れたら、もう会えないかもしれない。そんなこともよく考えました。

そんな私に手取り足取り、渓流のコツを教えてくださったのが、Twitterでご縁をいただいた渓流の師匠です。師匠は私を何度も渓流へ連れ出してくださり、釣りと安全に関する知識をたくさん教えてくださいました。

 

師匠の言いつけは、なぜそのようなことをおっしゃるのか最初のうちは理解できないこと、頭ではわかっても真似できないことが多々ありましたでもまっさらな気持ちで、とにかく言われたとおりに実践してみました。するとちゃんと結果が出るんです。だからやり続ける。それを反復することによって、次第にフォームが整い、思考と行動が自動化されていく。そうしたら、遺書を書いてから行った方がいいんじゃないかと思うくらい、怖くて仕方なかった渓流が、段々と楽しい場所に変わっていきました。

 

私は「渓流のセンス0だな…」と軽く300回くらいは絶望したのですが、にも関わらず渓流へ行けば毎回釣れるチャンスがあると思えるようになったのは、師匠のセンスが私に転移し始めているおかげなのだと思います。5歳児のブレイクダンスのような、ドタバタっと鈍臭い動きしかできなかった私が、師匠の洗練された動作を見取り続けたことで成長している。この事実が、私をますます渓流へと向かわせています。

熟達者から型を授けてもらい、適切なフォームで実践を重ねるうちに、いつか自然と良い結果が続くようになる。それをさらに繰り返していくと、技術や知識を超えて、センスや勘が養われる。そうなると様々なシチュエーションで応用が効くようになって、より成長が加速する。

 

これらを凝縮した概念が「守破離」だと思いますし、あるいは認知的徒弟制と表現しても差し支えないかもしれません。いずれにしても、組織における理想の新人育成フローと言えるのではないかと思い、それを渓流釣りという仕事とは全くの別世界から、実体験を通じて感じ取れたことに喜びを感じるのです。なぜなら、自分自身を通じた発見は、職務上のいろんなシーンで活用することができるから!

 

さて、途中センスという言葉を用いてみましたが、世の中には、「私はセンスがない」と諦めている人がたくさんいるのではないかと想像します。なぜなら私もずっと、センスがないということに悩んできたからです。

 

センスが悪い、センスがないと言われた時の「自分にはもうどうしようもないのかもしれない」という絶望感と言ったらありません。まるで死刑宣告のようなものです。

 

でも私は、センスは後天的に磨かれるということが、渓流の経験からよくわかりました。だから今はとにかく無性に、「センスは磨ける」という事実を、多くの人に届けたいなと思い始めています。

 

どうしたらセンスは磨けるのか?

 

この答えを探究し、ワークショップや研修として世の中にお返しできたら、私はすごく嬉しいのです。

人生を自分らしく!

相内 洋輔

contact_txt
コメントを残す

CAPTCHA


Twitterでフォローしよう