WORKSHOP LANDの相内洋輔(あいない ようすけ)です。私は職業柄、イベントに出席する際はついつい運営の良し悪しを観察してしまうクセがあります。素晴らしい・真似したいと思った点は自分の場作りに反映し、これはOUT・不快だなぁと感じた点は反面教師としています。
先日参加したイベントで、すごく大雑把な問いに出会いました。ある町の未来を考えることがテーマのイベントで、初めて会う参加者どうしがディスカッションをする形式だったのですが、提示された問いは、およそこのようなものでした。
この町でできることは?
(この問いでは、まともな対話が生まれようがないな…)と、私は瞬時に興味を失いました。また、このイベントは相当手抜きなんだろうな、とも思いました。
なぜなら、対話の成否を分ける「問い」づくりに、全くもって力が込められていないと感じられたからです。
参加者を迷子にさせる「曖昧な問い」は機能しない
この町でできることは? という問いは、今回のシチュエーションでは機能するように感じられませんでした。初めてどうしの人々が、何のテーマも持たずに語り合うにしては、問いの範囲が広すぎて曖昧だからです。
実際に私が入っていたグループでは、簡単な自己紹介が終わった後、「で、何から話しましょう…?」とお互いが顔を見合わせてしまいました。開幕でこうした状態に陥ってしまうと、その日のワークショップは失敗に終わる、と断言しても過言ではありません。
何人かが勇気を持って口火を切ってくれましたが、「こんな方向で合っていますかねぇ…?」と、みんな終始不安な表情を浮かべていました。問いが曖昧すぎるため、どんな意見を共有したらいいか、どんな視点がナイスなのか、道標が無いわけです。
進むべき方向性が分からなければ、霧の中を手探りで行くことになります。結局、「若者を応援する」とか、「人をつなげる」とか、各々が当たり障りのなさそうな抽象度の高い意見を列挙して対話は終わりとなりました。
どっちの方向に話を膨らませたらいいかも分からなかったので、それぞれの意見を深堀することもできず、ただなんとなく思いついたことを述べ合っただけの時間でした。正直に言って、参加者みんなにとって苦痛な体験だったと思います。
こういうクオリティの対話を強要する人が絶えないから、ワークショップは意味がないとか、主催者の自己満足だなどと言われてしまうんだよな……と、悲しい気持ちになりました。
ワークショップに参加してくださる方々は、それぞれに限りある人生の時間を削ってその場に来てくださっています。だから絶対に、曖昧な「命が宿っていない問い」で、他人の人生の時間を奪ってはいけないと、私は心から思うのです。
問いの「曖昧さ」は文脈によって変わる
ただし、こうした広すぎる問いの使用を必ず避けなければならないわけではありません。なぜなら問いが曖昧であるかどうか、機能するかどうかは、文脈によって変わるからです。
例えば、複数回に渡って町づくりの対話を重ねてきているケース。
町の現状や課題を見つめ、改善するためのリソースを洗い出し、理想の未来を描いたなど、一連のプロセスを深く探究できてた後ならば、「この町でできることは?」という抽象度の高い問いを提示されても困りません。
むしろ程よく自由度があって、考えを整理するにはしっかり頭に汗をかく必要があり、参加者の思いや価値観に根ざした意見が共有されやすくなる作用も見込める、良質な問いとなり得ます。
「この町でできることは?」という抽象度の高い問いは、冒頭で書いた事例のような、参加者どうしの相互理解も特定のテーマも存在していない更地からのスタートでは、積み上げるべきトピックスを見つけられません。
ですが違う文脈であれば、面白いように意見が飛び交う、思考を深める一助となる可能性があるのです。
問いづくりはワークショップづくり
このように問いはシチュエーション次第で効果が180°変わります。ですからワークショップの成果を高めたければ、問いに命が宿るよう、こだわり抜く他ないのです。
参加者が置かれた状況や背景に思いを馳せ、どの程度の抽象-具体度で、どの範囲について考えてもらいたいのかを明確に定義する。
使い古された問い、表現になっていないか、言葉を尽くす。
参加者の置かれた状況にフィットする難易度であるか、シミュレーションを重ねる。
そうして、参加者が「この問いに出会えて幸せだった。この問いに出会えただけで、今日ここに来た価値があった」と思える問いを目指す。
私はこんなワークショップデザイナーが日本中で活躍する未来を創りたいと願っています。問いづくりについては、また別の記事で書き進めてみようと思います。
今日はここまで。
対話をもっとおもしろく。
相内 洋輔
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