東日本大震災からのブレイクセルフ 〜10年間の道のり〜

東日本大震災からのブレイクセルフ
目次

始まりは「Follow Your Heartできないリクルート社員」

ダメサラリーマンだった僕が変わったきっかけは東日本大震災だった。それまでの僕はFollow Your Heartのリクルートに5年間勤めながら、笑えるくらい、自分の心に従えずにいた。

リクルートでの僕はドラえもんを欠いたのび太のような状態で、いつも弱音と愚痴ばかり。ベッドからぎりぎり這い出て会社に向かい、どうにか1日をやり過ごす、単調な毎日を繰り返していた。気持ちが滅入って、体調が酷い時には、申込書に書いてある数字さえ読めなかった。当然、成果も評価も散々だった。心の声に耳を傾けている余裕なんて全然なかったし、もし聴くことができていたとしても、結果を出せていない自分を信じるのは不可能だったと思う。

それでも僕は「輝ける場所が世界のどこかに必ずある」と信じていた。のび太だって射撃の腕前はスゴイ。

でも、次の会社でも通用しなかったら……。やっぱり自分の居場所なんてなかったら……。更に悪化したら……。暗い結末を考えると怖くて動けなかった。ビビリまくってた。

そんな幼虫のようだった僕がサナギへと変われたのは、東日本大震災がきっかけだった。仙台で震災に遭った僕は、偶然残った命を何のために使うか、人生で初めて、真剣に考えさせられた。それまでの僕は自分が裕福に暮らしたいがためだけにリクルートで働いていた。震災は、そんな生き方がどれだけちっぽけなことかを教えてくれた。

何ができるかはわからない。けれど、少なくとも友人の墓前でしっかり胸を張れるよう、人の役に立つ生き方を究めたいと思った。

2013年1月。僕はリクルートを辞め、ソフトバンクの孫さんが発起人となり設立された、公益財団法人東日本大震災復興支援財団へと転職した。復興支援に身を投じることが、このタイミングで僕にできる最大の社会貢献だと思ったからだ。財団では諸先輩方から星の数ほどのご指南をいただき、志を同じくする仲間に恵まれ、メキメキ成長することができた。そして最終的には独立をするまでに至った。

2021年3月現在、僕は「人が自分の意図に沿って自由に前進できる世界を実現する」という想いを胸に、NPO法人WAKUTOKIの理事長と、(株)Palletのダイアローグデザイナーとして、年間50回ほど自己理解や組織開発のワークショップを提供している。並行してプロコーチとして年間30回ほどのセッションも行っている。

リクルートで沈み毎日絶望していた昔の僕と、未来に向かって挑戦し続けている今の僕は、あまりに別人だ。だから震災から10年を迎えるに当たって、僕は自分が歩いてきた道のりを書き残したいと思うようになった。

10年前の僕は、明るい未来なんて想像することができなかった。どこで何を間違えたのか。どうやったら今日を怒られずやり過ごすことができるか。僕の明日は大丈夫なのか。答えの出ない問いに時間を浪費し、不安はさらに増した。出口の見えない人生は苦しい。

そんな昔の僕でも、未来に希望を持てる物語があったら。

ヘタレで冴えなかった僕が現実を変えて来た物語は、もしかしたら僕が経験したことと同じように悩んでいる人の役に立つかもしれない。もしそうだとすれば、これ以上の喜びはない。迷惑をかけ、恥をかいた日々も報われる。だから書こうと思った。

とはいえ、震災からの10年を整理するのは簡単ではない。物語の道標が必要だし、事実と感情とがごちゃごちゃに入り混じって、うまく書ける自信がなかった。数日かけて構成を考えてみたけれど、どれも大袈裟で、ツルんと滑りそうな予感がぷんぷんした。

書くのやめよっかな。構成も文体も定まらないまま書き出せば、破綻するのは目に見えてる。

伊藤羊一さんのVoicyを聴いたのはちょうどこんなタイミングだった。「明日からの元気の源になる話」というタイトルのとおり、聴いていてすごく勇気づけられた。以来、僕は敬意と親しみを込めて羊一さんと呼ばせていただいているため、ここでもそう書かせていただく。

羊一さんのようになりたいなぁと思いVoicyを聞き漁った。そうしたら突然、雷に撃たれた。羊一さんの新著ブレイクセルフ 自分を変える思考法の章立てが、僕が歩んできた日々にピタリと重なっていたのだ。偶然にしては出来すぎているくらいだった。同書には羊一さんが自分自身をブレイクするために実践された5つの思考法とエピソードが順番に収録されているらしかった。早速購入して読んだ。読めば読むほど、共通点が多いことが分かった。そして、この章立てに沿えば、震災からの10年間を整理し、僕の物語を多くの人に伝えることができるかもしれないと思った。

だからこの文章は、敬意を込めて『ブレイクセルフ』の章立てを土台にさせていただいた。無作法ではないかと躊躇いもあったけれど、もし羊一さんに相談できたとしたら「いいじゃん!どんどん表現しようぜ!」と言っていただけるのではないかと感じ、踏み切ることにした。

具体的には、羞恥心をブレイクせよ、恐怖心をブレイクせよ、続けることでブレイクせよ、心の声に沿ってブレイクせよ、自分をブレイクせよという5章のタイトルと流れをお借りし、僕の体験から得た教訓を副題として添えている。長い文章になってしまったけれど、できるだけ10年の中でターニングポイントになった出来事を選んで濃縮した。

何かのきっかけで人は変われる。いまは苦しかったとしても、未来はきっと大丈夫

羊一さんが書かれているように、僕も本当にその通りだと思う。だから、もしあなたが先の見えない日々を過ごしているのだとしたら、この記事から何か少しでもヒントが見つかれば嬉しいし、あなたの心に火が点けば最高だ。

羞恥心をブレイクせよ  『聞くは一時の恥』

人に聞くこと。

僕は昔から自分の知らないことを人に聞くのがとても苦手だった。そんなことも知らないの? と言われるのが怖かったからだ。あまりテレビに関心がなかったので、芸能人などには特に疎かった。でも学校って不思議な環境で、流行りの芸能人を知らないだけで途端にやっつけられたりする。だから、知ったかぶりをしてその場を切り抜けてきた。

人から指摘されることも同様に苦手だった。どうしてもお前はダメな奴だと攻撃されているような気になってしまい、防衛本能で応戦してしまう。だから指摘を素直に受け取るのが難しかった。オレはオレのやり方でやるから、と変に気取ってしまった。

リクルートでの社会人生活が低調だったのも、こうした悪癖の影響が大きかったと思う。もっと積極的に上司や先輩に教えを乞うていたら、金言を素直に受け入れていたら、開けた道もきっとあっただろう。

28歳で東日本大震災復興支援財団に転職した僕のエネルギー源は、「東北に貢献したい」という熱意と、「僕は仕事ができない」という強烈な劣等感だった。それまで中途半端にしか仕事をしてこなかった僕には、財団での仕事を行うにあたって、何もかもが不足していると思えた。勇んで転職したものの、それが現実だった。

中でも教養の無さは致命的だった。復興の役に立つ支援を、と思えば思うほど、スキルだけではなく、人間としての厚みが大事であるように感じられた。例えば先輩から「教育とはなんだと思うか?」と問われた時、僕はまったく自分なりの答えを返せなかった。恥ずかしくて消えてしまいたかった。

この時はまだ、よくは分かっていなかったけれど、復興という大きなテーマに対しては、自分の哲学をコンパスにしていかなければならないのだと感じた。だから何とかしなきゃと思って、年間100冊の本を読もうと決めた。とにかく成長したい。貢献したい。そのためにできることは、読書しかないと思ったのだ。

読書は苦ではなかった。我が家のご褒美が図書だったこともあり、僕は幼少の頃から本に囲まれて育った。片道1時間30分をかけて通勤していたので、本に触れる時間もたっぷりある。本から学ぶための環境は整っていると思われた。

でも、読んでも読んでも、内容が頭に残らなかった。成長を目指して読み始めたのに、成長実感が一切感じられないのは辛かった。

以下に伊藤羊一さんの言葉をお借りする。

『ブレイクセルフ』より引用

本から学ぶというのは、内容を覚えることではない。読みながら「え、そこはそうくるの?」「なるほど、でも、俺は違うんだよね」「そうそうそう、わかる!」……という具合に、本と対話することだ。本の内容をそのまま頭に入れるのではなく、主体的に自分と関連付けていくことだ。自分で選んだものだから、頭に残る。現実の問題解決の役に立てることもできる。

本と対話すること、本と自分を主体的に関連づけていくことを、僕は全く出来ていなかった。内容を暗記しようと躍起になっていた。いま振り返れば、間違った努力だったと断言できる。

読書はインナーマッスルを鍛えるようなもので、継続的、かつ効果的に取り組むことで血肉となっていく。短期的な成長とは少し相性が悪い。30歳を目前に、焦りは増すばかりだった。

「僕は遅れている」「このままでは浮き目が無い」

恐怖心はふとした瞬間に襲ってきて僕を苦しめた。こうした気持ちと付き合い続けるうち、心の中の天秤が、次第にグラグラと揺れ始めた。この情けない気持ちを抱えたまま生きるよりは、聞いて教わった方が遥かに楽なんじゃないかと思った。

当時の財団には、様々な分野のプロフェッショナルが集結していた。僕のちっぽけなプライドさえ脇に置けば、いつでも一流の先輩方に教えを乞える環境だった。

聞こう。聞く。そう決めてから、世界は動き始めた。

結論から言えば、財団での5年間では、気配りの極意、プロマネの技、企画の要諦、プロジェクトが円滑に進むための根回し、腹の括り方などなど、スキルからスタンスまで実に多彩な観点を学ばせていただくことができた。

中でも徹底的に面倒を見てもらった「正しい日本語の書き方」「フレームワークの活用」「美しい資料のデザイン」の3つのスキルは、僕の人生を別次元へと引き上げてくれた。だからこのストーリーを、物語全体の皮切りにしたいと思う。

日本語を学び直せ!

僕の日本語修行は「読み手を混乱させないシンプルな文章を書きなさい」という先輩の指導が出発点だった。恥ずかしながら、それまでは相手を想像して文章を書いたことなどなかった。つまりぜンブ自己満足だった。

そんな僕が目覚めたのは「あなたは日本語を曖昧にしか理解していないし、語彙が少ない。まず単語が持っている意味の範囲を正確に掴みなさい。次に語彙を増やしなさい」という先輩からのフィードバックにガツンと頭を殴られたからだ。

僕は、そんなことは絶対にない、と真っ正面から否定したかった。だって30年近く日本人をやってて、日本語を理解できていないわけがないだろう?

先輩からは毎日辞書を引いて、単語の意味を勉強し直すことを勧められた。なんという屈辱か。プライドだけは高かった僕の反抗心がメラメラと燃えた。聞く、と決めたのに、悪癖はたびたび顔を出した。

ただ、火のないところに煙は立たないのだ。ある日メールを書いていて、意味の理解が怪しい単語を使おうとしている自分に気づいた。嫌な予感がした。(試しに調べてみるか)と検索してみて我が目を疑った。その単語は思っていた意味と全然違う意味を持っていた。きっと他にもこうした誤認が点在していて、先輩はそれを見抜いてくださったのだと明確に分かった。今すぐ日本語を総点検しなければならない……。冷や汗が背中を濡らした。

こんな体たらくだったので、初めはメール1通を書くのに1時間以上かかった。言葉を調べて、文章を書いて、先輩にチェックしてもらって、書き直して、更にまた1時間が過ぎる。仕事は遅々として進まない。

それでも先輩は根気強く付き合ってくれた。時には夜中まで。

僕は先輩に、どうしたら文章が読みやすくなるか、誤認無く伝えられるか、どの単語が適切かを日々尋ねた。先輩はその度アドバイスをくださり、言葉を教えてくださり、僕の力量に合わせたトレーニングも提示してくださった。その繰り返しを経て、僕の日本語表現は磨かれた。

振り返ってみても、先輩はどうしてこんなに丁寧に粘り強く面倒をみてくださったのか、不思議でならない。あの頃の僕は自意識が過剰で、プライドが高くて、生意気で、全くカワイイ後輩ではなかったはずだ。僕だったらあんな奴には絶対目をかけない。にも関わらず、徹底的に個別指導をしてくださった。

もし先輩に出会えていなかったら僕の成長はなかったし、もちろん独立の芽など1mmも生まれていなかった。日本語力は全ての思考を司る。文章を正しく書くトレーニングは、つまるところ思考力のトレーニングでもあった。

お世話になったお礼として、いつか自書を出版し、先輩に献本させていただくことが僕のささやかな夢の1つだ。

フレームワークと論理的思考で語れ!

世界は表で表現できるを信条としていた上司からは、フレームワークによる編集力をみっちり鍛えていただいた。思考のトリガーとして、情報整理の軸として、フレームワークはとても重宝した。

機能する表を作るためには、情報の粒感を揃えること、ヌケモレを排除することが重要だ。最初は情報の粒度が不揃いになったり、MECEにできなかったりと苦戦が続いた。当時の僕は、抽象概念と具体の事象を行ったり来たりするのが致命的に下手だったのが響いた。

なぜAとBを並列にした? これらは同じ項目にまとめるような情報じゃないよ。

メリットとデメリットを整理してみると、相内が推してる案より、こっちの方がよく見えるじゃん。説得力ないよ。

情報が不足してるとワザと不都合なことを隠されているんじゃないかと疑いたくなる。ちゃんと網羅して持って来て。これじゃ判断できない。

上司からは数え切れない程のフィードバックをいただいた。最初のうちはおまえアホやなぁと言われているような気がして、身がすくみっぱなしだった。

人からできないと思われるのは辛い。僕はすごく嫌だ。でも実際できないんだから、食らいつくしかなかった。ここでもダメだったらもう……という危機感が僕を動かしてくれた。まさに背水の陣だった。

でも、人間の学習能力は本当にすごいと思う。作って、見せて、教わってを反復するうちに、だんだんと要点が分かってきた。自分でもフレームの出来不出来が理解できるようになって、不出来な部分は予め相談し改善することを覚えた。上司は相談を持ちかける度に、魔法のような解決方法を提案してくれた。ノータイムで繰り出されるキレ味鋭いフィードバックが痛快で、僕もいつかこんな大人になりたいと思った。

まずフレームから思考し、フレームによって情報を整理する。シンプルな習慣だけれど、こうした意識が芽生えたことによって、僕の思考力は格段に上がった。苦手だった抽象と具体の行き来も、情報を表の中へ取り出して並べてみることを繰り返すうち、だんだんと揃いが良くなってきた。

そうしたらある日突然、上司と上司、上司と先輩の会話がパッと理解できるようになった。恥ずかしながらそれまでの僕は、上司達の会話を理解できていないことが多々あったのだ。

マシンガンのように抽象から具体までを語り尽くした後「じゃ、あとはよろしく」と去っていく上司の背中を、(僕は何をやればいいですか……?)と思いながら見送ったのは1度や2度ではない。それで、ええい、ままよとアウトプットしてみたら、上司の意図と全く噛み合っていなくて怒られたり、聞き返してみてもよく理解できなかったり……。とほほ。

話の筋が掴めるようになれば、上司が求めるアウトプットイメージも大枠が見えてくる。フレームワークと論理的思考の鍛錬によって、僕の仕事の精度は日に日に高まっていった。

資料は美意識で作れ!

なんだか気持ちが悪いから1mmずらして? 僕は自分の耳を疑った。先輩の指示は、パワーポイントのテキストボックスを1mmずらせ、ということだった。

それ必要ありますか?

僕は心から思った。こんな忙しい時にやる必要のある作業かと腹も立った。パワーポイントは残り20ページ以上もある。この調子で全部を確認して行ったら日が暮れてしまう。

美しい=分かりやすいだから。僕は先輩の言葉が理解できなかった。美しかろうが、そうでなかろうが、資料に書いてあることを読んだら分かるのでは。

余白がないのは全然だめ。余白を作って。余白……? パワポに余白必要ですか? できる限りの力で作成した表です。これ以上小さくすることはできません。

しかし、先輩は言った。「1mmを削りだせ!」

1スライド1メッセージとせよ。使用するフォントは統一せよ。強調カラーは2色までとせよ。ネガティブ情報は赤字、ポジティブ情報は青字を使え。見出しの位置は全ページ固定せよ。できる限り少ない文字で表現せよ。文字のサイズを統一せよ。主張を補完する画像を適切に配置せよ。等間隔に並べよ。余白を取れ。ショートカットキーを憶えよ。

毎回あまりにも修正が続くので、頭に血が上って「文字を読んだら分かるじゃないですか、読み手はそんなに頭の悪い方なんですか?」と先輩に食いついたこともあった。先輩の主張は一貫していた。

美しさを追求せよ。美しい=分かりやすいである。

悪癖も手伝って、このご指摘にはなかなか納得ができなかった。細部の美しさにこだわって時間を浪費するより、全体は粗くとも数多くの業務をこなしたほうが復興の役に立てるのではないかと感じたからだ。

復興という壮大な事業に対し、僕は東京ドームを動かそうとしているアリのような存在だった。だから、もっともっともっともっとやらなければという焦りが常に僕の心を蹴飛ばしていた。

けれども僕は、美しさは正義だということを次第に体感していくことになった。先輩のフィードバックに沿って資料を作ると、後工程がとてもスムーズだったのだ。まず上司から資料の作り直しを求められる回数が激減した。次いで内容へのコメントが端的になった。ほとんど修正や変更がなく進む案件も増えた。セルフ産業革命とでも形容したらいいのか、生産性が飛躍的に高まった。

それどころか、美しくないパワーポイントを気持ち悪いとも感じるようになった。前頁と見出しの位置がずれていたり、配置が不揃いだったりする資料は、ページを繰る度にガタつく。その一瞬のストレスが「この資料は信じてはならない」というアラートに変わるということが、よく分かった。

僕は、読めばわかるなどと大口を叩いていた自分の感性の貧しさを悔いた。もちろん、素直に先輩の指導を受け入れられなかったことも。

以来、パワーポイントで資料を作成する際は先輩の教えを徹底した。どうしたら美しくデザインできるか分からない時、挿入するイメージ画像に迷った時などは、臆せず先輩に尋ねた。日本語の書き方も、フレームワークの使い方もそうだったように、先輩方は聞けば聞くほど、無限の可能性を示してくれた。僕では絶対に思いつけない表現方法の連続に感動しっぱなしだった。

一人の先輩には、財団を退職した後も、折に触れて添削を続けていただいた。美しいスライドを作る意識に拍車がかかった。資料を美しいか、気持ち悪いかでチェックできる感性が芽生えたのは、一生の財産だと思う。

、一人だけの現実を、みんなの現実へ

基礎戦闘力こそ全ての土台

「正しい日本語の書き方」「フレームワークの活用」「美しい資料のデザイン」は、僕を地獄から救い出してくれた蜘蛛の糸だった。

情報を正しく理解し、思考する力が身についたことで、読書からの学びもスムーズになった。次々に実践を重ねながら、疑問に感じたこと、不足感を覚えたことを本で補強し、僕の土台はちょっとずつ強固になって行った。

リクルート時代の僕は、基礎戦闘力の向上にほとんど意識を向けていなかった。目先の成績を求めすぎたあまり、安易なタイトルの低級本を鵜呑みにし、小手先のテクニックに走り、場当たり的な対応に終始していた。そりゃ行き詰まって当然だろうと思う。逞しい木を育てるためには、まずしっかりと土を耕すことが必要だ。そんな当たり前のことを、僕は全然できていなかった。

その点、教えていただいた3つの能力は太い幹になって、今でも僕の活動を支えてくれている。主戦場であるワークショップではそれが特に顕著だ。例えば僕のワークショップの参加者が、抵抗なく、かつ誤認なくワークに取り組めているのは、構造的に整理された情報が、分かりやすい日本語で、スライドに美しく並んでいるからだと思う。参加者に余計なストレスを与えないから議論が深まるし、満足感も上がる。

企画業務やプロマネ業務などでも同じことが言える。思考の手順を明示でき、相手に適切な言葉で届けられるから、ディスカッションポイントを絞りやすい。そうすれば結論が早いし、お互いの認識も整う。

未熟すぎてお恥ずかしい限りだけれど、教えていただいたスキルがどれほどの価値だったか、教えることにどれだけの手間がかかるかに気づいたのは、財団を退職してからだった。上司や先輩方には、まだ直接お礼を言えていない。だから次にお会いできた際には、きっと感謝の気持ちをお伝えしたいと思っている。

恐怖心をブレイクせよ  『まず動け。悩むヒマがあったら動け』

東日本大震災復興支援財団へ転職した直後、28歳だった僕は、体のどこを切っても恐怖心が溢れ出るような状態だった。初めての転職。初めての東京。初めての企画業務。不安をあげればキリがなかった。

自分の至らなさと向き合うこともまた、怖くて仕方がなかった。有り難いことにリクルートOB=仕事がデキルという認識をお持ちの方はとても多い。実際、財団に転職をしたばかりの頃は、人とお会いするたび「リクルートなんですね、すごいですね!」「リクルートOBだからこんなにハツラツとされているんですね」「リクルートの人は社会貢献意欲が高いよね!」などなど、何もしていないのに称賛の声がけをいただき続けた。

違う。違うんだ。僕は全然ダメなんだよ……。期待に実力が追いついていない自覚があったから、ずっと肩身が狭かった。せめて、このギャップがバレないようにと願った。

恐怖の源泉はちっぽけなプライド

ただ、仕事ができるかどうかなんて程度のことは、ほんの少し一緒に過ごせばすぐに見抜かれる。こちらは隠せていると思っていても、相手から見れば丸裸だ。入団して半年くらいが経った頃だっただろうか。上司との1on1で、リクルート出身だからもっとデキルと思っていたと率直にお伝えいただいた。自分でも期待に応えられていないことは良くわかっていたけれど、いざ喉元に突きつけられると、やっぱりショックで目の前が滲んだ。

でも面白いことに、一方ですごく安心もした。もう虚勢を張ったり、できないことを隠す必要はないと、吹っ切ることができたからだ。できない自分を認め、ノーガードで今ここから始めるしかない。そう思えたから、前章でご紹介した先輩方からのご指導にも食らいつくことができた。

周囲の人から「相内は東北出身で、自分も仙台で震災を体験したにも関わらず、被災地のことをよく知らない」と思われることもまた、大きな恐怖だった。事実僕は、東北のこと、復興のこと、被災地の人々のこと、様々な制度のことを、ほんの一片だけしか理解できていなかった。震災の被害は広く、爪痕は深い。課題は複雑に山積している。被災地に住んでいたというだけでは補えないほど、僕が知るべきことは多かった。

スキルもない。知識もない。勘所も悪い。

そうすると僕に残されたのは、仙台で震災に遭った、という経験だけになってしまう。それは、他者からは否定しがたい経験ではある一方で、残念ながら、震災の復興を支援する事業を設計するために必要不可欠なことでは、決してないように感じた。若さを武器にするような年でもないし、通用する仕事でもない。

このままの僕なら、ほとんど戦力外。

自分自身が、誰よりも感じていた。でも、誰かにそう思われることだけは避けたかった。そういうプライドが僕を動かしてくれた。

恐れには体ごとぶつかれ

戦力になるためにはどうしたら良いか。

考えた僕は、とことん東北に飛び込もうと決意した。胸を張れるものが無い以上、せめて誰よりも多く被災地域に足を運ぶ人になろうと思ったのだ。シンプルな決断はアクションに強い。僕はほとんど毎週、東京の事務所から東北を尋ねた。

実は震災から2年が経った2013年でも、まだ海の存在が怖かった。でも、この機に乗り越えようと腹を括った。

震災からの2年間は、意識して海を遠ざけていた。震災後ほどなくして視察した仙台近辺の浸水区域は、ヘドロまみれで真っ黒な空間に、数え切れないほどの蛍光テープが揺れていた。ご遺体が見つかった場所を示すテープだ。

隣り合う干潟では、太陽が海面を照らし、キラキラと乱反射する光の中を、真っ白な鳥たちが優雅に飛んでいた。生命感に溢れた美しい世界だった。それだけに、ほんの数十メートル先に存在する、黒一色の世界とのコントラストにゾッとした。どうして神様はこんな残酷な対比を用意したのか、意味が分からなくて息が詰まった。あの光景は、僕にとっての黄泉比良坂だった。以来、海には行けなくなった。

話が飛び飛びになってしまうかもしれないけれど、思い返してみると、被災された方、大切なものを失くされた方と接することもまた怖かった。土足で踏み込んではいけない、軽率な発言をしてはいけない、楽しそうに振る舞ってはいけない、安請け合いをしてはいけない……。

でも、こうしたことを理由に止まる自分は許容できなかった。不出来な自分にケリをつけるには動き続けるしかない。とにかく数多くの人にお会いし、地域の現状や、支援活動の展望を毎週毎週教えていただいた。名刺はすぐに切れ、Facebookの友達は瞬く間に300人以上増えた。

財団で過去に募集した助成事業への申請書約500通も完読した。上司が「復興の過程を知り、これからを想像するために全部読むといい」と勧めてくださったのがきっかけだった。同時に『被災地の聞き書き101』という、広辞苑のような厚さの書籍をいただいた。この本には被災された101人の方々の営みと、震災への思いが綴られている。ページをめくることが何度も苦しくなったけれど、読み切った。

こうしたことを1年ほど積み重ねるうちに、ある日パッと、現地の方々が共通して感じている課題やムード、個々の地域の特徴や、団体ごとの微細な差が感じられるようになった。大局を掴みながら、各論も語れる人間は信頼される。上司や先輩と比べれば粗い部分だらけだったが、それでも僕の言動は少しずつ財団の内外から存在を認めてもらえるようになっていった。

何より、自分の目で見て、自分の耳で聞いた情報が蓄積されたことが自信につながった。

網地島

続けることでブレイクせよ 『ただ一灯を頼め』

「新規事業を始めるから、相内が責任を持ってやってくれ」

望外のミッションをいただいたのは、財団に入って1年半が経った頃だった。リクルート時代から憧れていた新規事業。先の章で紹介した「もっとできると思っていた」と伝えてくれた上司からの指令だったので、新規事業を任せてもいいと感じていただけるくらいには信頼度が増したのかと思うと、飛び上がるほど嬉しかった。

僕は上司から伝えられた東北の次世代を担うリーダーを育成するというミッションの実現に向けて、ユースアクション東北という事業を設計した。制度設計や内閣府への変更認定申請などの事務手続きには、入団以来担当していたNPO団体向けの助成金事業で培った知識や、ご指導いただいた日本語力、フレームワークなどがとても効いた。僕のキャリアにおいて、過去の経験がつながったという感触はこの時が初めてだった。初めてのデート後のようにウキウキと高揚した。

想いをカタチに

ユースアクション東北では、東北の高校生がプロジェクト・ベースド・ラーニング(PBL)を通じて、実践知を獲得することを主題とした。当時東北では、復興を願う高校生や大学生が数多く活動していた。彼ら/彼女たちは圧倒的なパッションを斧とし、目の前の障害を全力でなぎ払っていた。そのひたむきな姿がとても眩しく、多くの大人が魅了された。ひとしきり活動を終えた後、若者たちは溢れんばかりの経験と希望を胸に、次のステージへと羽ばたいて行った。壮大な成長ストーリーがいくつもあった。

こうした成長行動の再現性を高めることができたら、東北にとって貴重なレガシーになると思った。そのために、僕たちは復興に繋がる活動を志す若者に助成金を提供し、大人の伴走者をマッチングすることを決めた。

PBLでは、選択肢を提示したり、状況を整理する手伝いはしたとしても、最後に選択をするのは高校生自身であることがとても重要だ。その結果、活動が失敗したっていい。自分で行動を起こせば、必ず学びがある。つまり先生的な関わりではなく、コーチ的な寄り添う関わりこそが重要だと考えた。幸い、東北にはこうした大人(伴走者)がたくさんいて、各地で活動を始めていた。

有り難いことに、PBL領域で先行して著しい成果を出されていた認定特定非営利活動法人カタリバの今村久美さん菅野祐太さん、認定特定非営利活動法人底上げの矢部寛明さんたちがお力を貸してくださり、想像していたよりも多くの伴走者仲間を招き入れることができた。

初年度の伴走者合宿に参加してくださった大人は35名。今でもからかわれるのだけれど、マイクを握る僕の手は震えていた。当時の僕にはPBLの伴走体験がなかった。いわば先輩だらけの場で旗振り役として振舞わなければいけなかったので、少なくとも絶対に粗相だけは避けねばはならんとカチコチになった。

そんな僕の心配をよそに、合宿の内容や事業の理念にはとてもご満足いただくことができた。芝生で、食堂で、階段で、参加した大人が思い思いに自分の体験や意気込みを語る姿が今でも脳裏に焼きついている。みんなで手を組んで東北のPBLを盛り上げていこうと団結することができた、記念すべき2日間だった。

教育のプロでもなく、ましてやPBLの伴走経験さえなかった僕のこの指と〜まれ!に先達の皆様が賛同してくださったのは、久美さん、菅野さん、矢部さんの人徳のおかげであることは重ねてお伝えしたい。

その上で、敢えて僕にも成功の要因を探すとすれば、それは、参加してくださった皆さんに何度もお会いしていたということに尽きるのだと思う。「東京の財団の相内さん」「何度も視察に来ている相内さん」では心象が違う。事実、接触頻度が多くなるほど好感度が増すことを突き止めた、ザイオンス効果という研究が存在する。

恐怖心から欠かさず続けてきた東北行は、もしかしたら僕の未来を開いたのかもしれない。

機会によって自らを変えよ

ユースアクション東北の立ち上げを振り返ると、毎日が決断の連続だった。最初の1年は、自分で考え、自分で行動を起こし、結果に責任を持つのがただただ恐ろしかった。いつもこの判断でいいのだろうかと悩みに悩んだ。上司だったらどう判断するだろう。東北の団体の皆さんだったら。高校生だったら。異なる目線から、どの判断がベストかを思考するクセがついた。そうしてぶつかりながら、転がりながら課題を乗り越える度、とっても大きな自信が生まれた。リクルートでは年次が上がるにつれて自信を喪失していたので、経験に正比例して自信が増えることに感動した。

久美さん、菅野さん、矢部さんの近くで長い時間を過ごせたこともまた、僕にとって大きな財産になった。生徒への愛情は海よりも深く、掲げる目標は山よりも高いお三方と接し続けることで、僕も生半可ではいけないと背筋が伸びた。お三方との協働の日々がなければ、僕の心構えはフニャフニャなままだっただろう。

ユースアクション東北の立ち上げは、思わぬ機会ももたらしてくれた。ソフトバンク株式会社 CSR部に兼務出向となり、事業に関連深いTOMODACHIソフトバンク・リーダーシップ・プログラムを担当させていただくことになったのだ。夏は100名の高校生と一緒に3週間、カリフォルニア大学バークレー校へ滞在し、プログラムを運営した。

どこまでも広がるカリフフォルニアの青空、マーク・トウェインに「私が過ごした最も寒い冬はサンフランシスコの夏だ」と言わしめたサンフランシスコの海風、仲間との熱いディスカッション、校舎に響く生徒たちの笑い声、感謝のハグ。怒ったり、泣いたり、笑ったり、どれも一生の思い出になった。まさか英語もろくに話せない僕が、3年も続けて海外出張をすることになるとは夢にも思っていなかった。

こうして現場を持てたおかげで、PBLの伴走経験も激増した。事業の立ち上げ時は素人だった僕だったけれど、年を追うごとに事例が蓄積され、周囲の伴走者からも一目置かれるようになった。アサインいただいた上司と、英語が堪能なパートナーがいたからこそ開かれた機会に、やっぱり僕はただただ感謝しかない。

点がつながり人生がシフト

新規事業を立ち上げてからの僕は良縁に恵まれ続けた。その中でもワークショップと再会できたことは大きな大きな出来事だった。各駅停車だった僕の毎日が、快速特急へと切り替わった。

ラボ・パーティという組織に属していた大学生時代、僕の人生の中心は常にワークショップだった。300人のキャンパーが集まるサマーキャンプ、キャンプを牽引する高校生リーダーの育成、小学生会員との交流などなど、ラボでの活動は全てがワークショップ的だった。当時の僕は勉強そっちのけで、ワークショップの探究に没頭した。ワークショップの企画運営が大好きだった。

僕がワークショップを大切にしていたのは、文字通りワークショップに人生を救われたからだ。僕が高校生だった頃、我が家は借金で荒れに荒れていた。億円単位の借金を前に、僕はあまりに無力だった。自暴自棄になって、無気力な日々を過ごした。幸せそうな同級生に馴染めなくて、家にも学校にも居場所がなかった。カビ臭い部室に隠れ、すみっこ暮らしをした。ラボキャンプでリーダーを務めたのはこんなタイミングだった。

有り難いことに、天真爛漫で誠実なパートナーと一緒にグループ運営をさせていただき、ほっとするほど楽しい3泊4日を過ごすことができた。中でも、担当したワークショップをキャンパーに楽しんでもらえた瞬間は、天にも登るような心地だった。乾きに乾いた毎日を過ごしていた僕でも、自分が考えたコンテンツで誰かを喜ばすことができる。そう思うと、自己効力感が湧いてきた。ワークショップはこうして僕の特別な存在になった。

以来、大学を卒業するまでの6年間は文字通り人生をワークショップに捧げた。リクルートの面接で語ったのも、ワークショップへのこだわりや想いだった。でも営業マンとして働くうち、僕はもうすっかりワークショップの存在を忘れてしまっていた。そんなタイミングでの、予期せぬ再会だった。ユースアクション東北、TOMODACHIソフトバンク・リーダーシップ・プログラムには、ワークショップの機会が溢れていた。

昔取った杵柄。大学生ぶりに運営した僕のワークショップは、関係者から高評価をいただくことができた。社会人になって以来6年、7年と、自分の存在価値を褒めてもらった記憶がなかった僕は、ワークショップの場作りを褒めていただけることに感激した

漫画『スラムダンク』に福田吉兆という愛すべき選手が登場する。彼は監督に叱責され続けてきた鬱憤から暴力行為を働いてしまい、長く試合に出場することができなかった。しかし遂に公式戦の舞台に立ち、次々とシュートを決めた福田は、コート上で「もっとホメてくれ」と震えた。僕はまさに福田の心境だった。認められることに飢えていた。だから褒めて欲しかった。

ワークショップを運営したら惜しみなく褒めてもらえた。毎日のようにONE OK ROCKの『Be the light』を聴いていた僕は、これこそが自分にとっての灯だと思った。もっともっとワークショップに生きたい。リクルートでの挫折によって深傷を負っていたハートが、少しずつ癒されていった。

心の声に従ってブレイクせよ  『好きをとことん愛せ』

生涯の転機となったのは、2017年に開催した3回目の伴走者合宿だった。企画運営を手伝ってくださったカタリバ菅野さんにコンテンツ案を200個お送りしたら「ヤバイ。天才だな。才能ある。こんなの作れないよ」とお褒めのお言葉をいただいてしまったのだ。この言葉が僕のキャリアを方向付けたと言って過言ではない。僕は大いに調子に乗った。

アイディアの質は量に比例する。『考具』が愛読書だった大学生時代の僕は、とにかくアイディアの数を出すことを徹底していた。最初は苦手だったけれど、同書で紹介されていた方法を使ううち、メキメキとアイディア体質に変わって行った。

連想の取っ掛かりさえ作ればアイディアは湧く。だから自然に「他の人もたくさんアイディアを考えているんだろうなあ」と思い込んでいた。たまたま親しくさせていただいていた財団の先輩も、100個くらい企画を考えるのは当たり前というタイプだった。

しかし菅野さん曰く「200個のコンテンツ案を作るのは普通のことではない」らしい。僕はこの時に初めてワークショップへの偏愛を自覚できた。大学時代と同じように、ワークショップのことならいつまでも考えていられた。

遅咲きのFollow Your Heart

65名が集まった合宿は大盛況だった。東北の教育の未来はどうあるべきか、高校生のPBLをもっと学び多き機会とするためにはどうしたらいいか、真剣に語る仲間と過ごす時間は胸が熱くなった。会話が尽きず、ほとんど夜通しで仲を深め合った。

僕自身においては、「ワークショップのプロとして食べていける!」と最大限の称賛をいただけた会でもあった。ワークショップのプロ。そんな未来を考えたことなんてなかった。でも、もしそうなれたらゾクゾクする。挑戦してみたいと思った。

僕はこの波に乗ることを決めた。32歳、遅咲きのFollow Your Heartだった。

合宿から帰宅した僕は、どうやったらより素晴らしいワークショップが実践できるようになるかを考えた。日頃からアイディアを出しておけば、本番の設計に役立つだろう。ピンっと閃いて、ワークショップアイディア出しチャレンジを自主開催することに決めた。

アイディア出しチャレンジには、

  1. 毎日2個のコンテンツ案を作る
  2. 365日続ける
  3. 毎週ブログで発信する

という3つのルールを定めた。ブログで発信することにしたのは、そうした方が逃げられなくなると思ったからだ。僕は恐る恐るブログを開設して、なんか変なこと書いたら炎上するんじゃないかと怯えながら投稿を続けた。やってみて分かったのは、個人ブログでPVを集めるのは大変ということだ。人の目に触れなければ炎上もしようがない。盛大な杞憂だった

アイディア出しチャレンジは最初の数日こそ快調だったけれど、日を追うごとにどんどん苦しくなった。アイディアが浮かばない日の方が圧倒的に多かった。また、気がつくとアイディアの内容が似通ってしまい苦心した。手を替え品を替え連想の切り口を探し、なんとか独創的なアイディアを捻り出せた時はめちゃくちゃほっとした。

チャレンジを始めて80日が過ぎた頃、僕は高速道路でハンドルを握っていた。前方には確か総武交通だったと思う、金色の鶴がペイントされたバスが、夕陽の中を疾走していた。鶴のペイントが視界に入ったとほぼ同時に「守護神にしたい動物は?」というアイディアが浮かんだ。おおお、守護神。僕は自分のユニークな発想に思わず膝を打った。

正直なところ「守護神にしたい動物は?」というアイディアは、コンテンツとしてはほとんど無価値だ。でも、何かを見てパッとアイディアが浮かぶ瞬発力と、これまでの枠を超えた発案を厭わなくなった自分の心持ちから、確かに成長を実感できた。

結局アイディア出しチャレンンジは、アイディアが1,000個を超えるまで続けた。ブログは全く読まれなかったし、本番のワークショップで使ったアイディアはほんの10個くらいだったけれど、僕はすごく満足だった。未来のありたい姿に向かって自分で定めたアクションをやり切れたことに充実感があったし、四苦八苦してアイディアを捻り出したことで頭のリミッターが何層も解除された手応えがあった。頭は使えば使うほどに冴えるのだと分かった。

学べばわかる わかればかわる

僕はこの間、並行してコミュニケーショントレーニングネットワーク®️(CTN)の講座に通っていた。NPO法人ハーベストの山崎さんに「相内くん、ファシリテーションを極めるためにうってつけの講座があるよ。行かないと人生損するから!」と鬼気迫る形相でオススメいただいたのがきっかけだった。

調べてみると、深いレベルでのコミュニケーションを通じて、パラダイムをシフトさせるセンスを習得できる講座らしい。つまりコーチングのようなものなのだろうと解釈した。コーチング的な関わりをもっと専門的に学べば、ワークショップはもちろんのこと、PBLの伴走力も上がるだろう。何より、山崎さんが「人生損する」と強い言葉でご紹介してくださったことが頭から離れなかった。

1コース18万円と、決して安い受講料ではない。妻に相談してみたところ「自由にせられ」と背中を押してくれたので、僕は意を決してCTNの講座を受講することにした。2016年の秋だった。

本当はぼったくりなんじゃないかとか、コーチングに見せかけた宗教なんじゃないかとか、高いお金を払って何も得られなかったらどうしようとか、僕は妄想に振り回され、ビクビクしながら初回の講座に足を運んだ。もうお金も振り込んでいるし、今更どうすることもできないのに、大江戸線の車内でCTNの評判を読み漁った。小心者が過ぎる。

ただ、学びに大金を投資したのは初めてだったし、世の中を見極める力量も持ち合わせていなかったから、不安になるのも当然だったかもしれない。まあ、それにしてもちょっとビビりすぎだったかな……、と今でこそ笑えるけれど。

CTNには、僕のちっぽけな不安など一息で吹き飛ばしてしまうほどの未知なる世界が、深々と、そして延々と広がっていた。刺激で頭がハジけた。同時に、僕がこれまで当たり前だと思っていたコミュニケーションとは、一体何だったのだろうと思った。

回を重ねるごとに、僕はどれだけ身勝手なコミュニケーションで周りとの関係を損ねてきたのか、相手の声を聴いていなかったのか、人を小さく扱って来たのかを思い知らされた。だから講座に行くたび絶望した。悔しくて情けなくて、武蔵野線のホームでよく泣いた。真冬のホームほど、悔恨と相性の良い場所はない。クソみたいな僕に付き合ってくれている人々の存在に感謝しかなかった。

こう書くと地獄の特訓のように見えてしまうが、CTNでの学びは楽しかった。本当に楽しかった。

これまでの当たり前をアンインストールして、新しいOSへアップデートする。そうすると、これまでとは桁違いの成果、全く異なる質の成果が生まれたからだ。結果が出るのだから面白くないわけがない!

誇れる仕事

特にワークショップ領域での効果は絶大だった。2017年の秋、僕はカタリバの菅野さんからマイプロジェクトスタートアップキャンプ「東北カイギ」の企画進行を一任いただいた。岩手、宮城、福島を中心に、東北の各地から集まった33名の高校生と、大学生や大人の50名、合計83名が2泊3日を共に過ごすビッグイベントだった。

自画自賛になってしまうけれど、2017年の東北カイギは、参加生徒の深い自己探究が当事者意識の強いマイプロジェクト設計へとつながり、自分自身を全力で持ち出すプレゼンが感動の連鎖を生む、本当に素晴らしい空間を創出できたと思う。最終日の昼下がりに見た、窓から差し込む太陽の光と、参加生徒の清々しい顔、仲間たちから手渡されたメッセージ、パートナーの涙は、今でも僕の宝物だ。時間をかけて関係を築いてきた伴走者の仲間達と協力しあい、最高の成果を手にできたことは、かけがえのない経験になった。

この日まで僕は、誰かに誇れる仕事体験を持っていなかった。情けないことに、大学生時代に運営したサマーキャンプが人生のピーク体験で、社会人になって9年が過ぎても、当時の幻影を超えることができずにいた。

サマーキャンプの運営は、青春と青春のぶつかり合いだった。ものすごくピュアで、スリリングで、常にアドレナリンが全開。意見が違えば掴み合うし、うまく行けば抱き合いもする。大嫌いと大好きが行ったり来たりで忙しかった。最低点と最高点のギャップが激しいほどグッとくるあの中毒的な没入体験は、それなりの仕事では全く超えられる予感がしなかった。

それが、社会人になって9年。「最も誇れる仕事は?」と問われることがあれば「2017年の東北カイギ!」と言えるようになった。ようやく僕のベスト1が塗り替えられた……。大きな安堵を肴に、山形新幹線に揺られて飲んだビールは極上だった。長年の呪縛から解放されて、これからもっともっと仕事を頑張れるように思えた。

だから、僕の腕を見込んで声をかけてくださった菅野さんには感謝しかない。もっとビッグネームな方をお招きしたり、波風が立たない無難な選択をしようとすれば、いくらでもできたはずだ。僕に賭けてくれて、本当に有り難かった。

そして、絶妙の呼吸で寄り添ってくれたパートナーにも、改めてありがとうを伝えたい。

写真は https://myprojects.jp/news/5949/ より引用

自分をブレイクせよ 『ダメでも死なない。飛び込め』

独立は人生のタブーだと思っていた。だから安定して給料がもらえるサラリーマンしか選択肢になかった。

僕が自営業を忌み嫌うようになったのは高校2年生だった頃だ。先に書いた通り、自営業をしていた我が家には億単位の借金があって、その返済に窮していた。家の中は常に荒れていた。お金がないと人は壊れていくのだと痛いほど感じた。悲しい気持ちでいっぱいだった。あんな目にはもう遭いたくない。だから自営業なんて最低の選択と自分に言い聞かせてきた。

だから、こんな僕が独立するのは、天地がひっくり返っても有り得ないと思ってた。

人生のタブーを飛び越えて

きっかけはワークショップだった。僕はワークショップに生きることこそが、自分にできる最大の社会貢献であることに気付き始めていた。

でも、財団で働きながら自由にワークショップの仕事を受けることは難しかった。財団業務との関連が薄いワークショップは断らなければならない。大きなワークショップが控えていても、求められるタスクやミーティングには応じなければいけない。でも僕はワークショップに集中したい。

お互いの優先順位が捻れてしまい、どうにも居心地が悪かった。だから、もうここに留まっていることはできない、と悟った。

問題は辞めてどうするかだった。

もし、財団より自由にワークショップをやらせてもらえる職場が見つかったとしても、必ず大なり小なりの制限があるだろう。組織の一員としての務めは果たさねばならない。長い会議、誰のためか分からない事務作業、職場や人間関係への愚痴、本音と建前……。僕の集中を削ぐしがらみを考えるだけでウンザリした。

となると、どこにも属さずやるべきだろうか?

独立することを想像してみると、グランドキャニオンの断崖に立たされているイメージが浮かんだ。娘はまだ2歳。これからきっとお金もかかる。ワークショップで食べていくことなんてできるんだろうか。周囲にワークショップだけを生業としている人はいない。かなり狭き道だろう。無謀な挑戦かもしれない。

頭で考えたら、青信号が灯る要素はなかった。

でも僕は仕事からの帰り道で、自分自身の小さな声、でも偽りのない声を聞いた。

(独立してみたい)

まさか、と思った。でもなぜか、心当たりはあった。

『神々の山嶺』の主人公である深町誠が、自分の心に嘘をついて押さえ込んでいたエヴェレストへの衝動を遂に自覚した瞬間、嗚咽したように、僕はローソンの街灯の前で、ふいにこぼれる涙を止められなかった。

長い間ずっと気持ちに蓋をしてきたけれど、僕は本当は独立してみたかったんだ

もう止められない、と思った。人生の中で、一番大きなパラダイムシフトの瞬間だった。

うまくいかなかったらサラリーマンに戻ればいい。失敗したって命までは取られない。妻とこんなことを話せたことで、心は軽くなった。

それから恐る恐る、周囲に独立の意向を打ち明けてみると、有り難いことに、復興支援でご一緒してきた団体の皆様から仕事をいただくことができた。財団も雇用契約から業務委託契約へ切り替えることを検討してくれ、向こう半年は食い扶持に困らない目処が立ちそうだった。

そうして2018年の5月。僕は地元仙台で開業届を提出した。職業欄に記載した「ワークショップデザイナー」という文字が眩しかった。33歳、新しい挑戦が始まった。

ワークショップを全力でやろう!と決意した日の空

ATM事件と人の優しさ

独立をして以来、僕はつとめて平静を保ちながらも、内心ではずっと怯えていた。不安はふとした時に突然やってくることが多かった。仕事が終わって一息ついている時とか、アポイントが無い日ほど、人間は余計なことを考え出す。これから大丈夫なんだろうか。契約を継続してもらえるだろうか。来年は稼げるだろうか。考えても答えが出るわけの問いが次々に浮かび、心がすり減った。

ある日、家のトイレに腰をかけた僕は、これまで味わったことの無い猛烈な不安にいきなり襲われた。意に反して足が大きくガタガタと震えた。身体中が冷や汗でびっしょりだった。お金が無い夢を見て飛び起きることもよくあった。あれは本当に健康に悪い。

そんなある日、事件が起こった。生活用の口座から2万円を引き落とそうとしたら残金不足でできなかったのだ。委託は毎月固定でお支払いをいただけるものもあれば、3ヶ月や半年単位の支払サイトなど様々だった。運悪く、各支払いの狭間で現金が枯渇してしまったらしい。33歳にもなって2万円も引き落とせないなんて……。やっぱり独立なんてしなければ良かったんじゃないかと、目の前が真っ暗になった。

こうした状況を打破したのは、僕の不断の努力があったからに他ならなかった……などと書けたらカッコイイなあと思うが、残念ながら僕はそんなにマッチョではない。グラグラと不安定な僕のつっかえ棒となって、どうにか真っ直ぐ立つことを支えてくれたのは、いつだって僕ではない誰かの存在だった。

例えば、途方に暮れて底上げの矢部さんに電話をかけ日は「マジで困ったら毎月10円でうちに住んでいいよ! 3人で30円!」「相内くんがお金稼げないわけないから、大丈夫」と励ましてもらった。僕の世界には月30円で暮らせるシェルターがある。そう思ったらものすごく気が楽になった。

経営に詳しい親戚からは日本政策金融公庫からの借入を教えてもらった。恥ずかしながら僕は公庫の存在を知らなかった。というか事業資金を借りるという選択肢すら思いつかなった。すぐに融資の申請をし、まとまった資金をお借りすることができた。事業への投資と、生活費を分けて考えられるようになったのは有り難かった。12月のことだったので、素敵なクリスマスプレゼントだなあ、これで安心して年越しできるなあと思ったことが懐かしい。

財団時代にご一緒させていただいた仲間からは、今でも定期的にお仕事をいただいている。仕事が来るかなあ、依頼は増えるかなあなどと悩みながらも、実のところ僕は、独立以来1度も営業をしたことがない。全ての案件を友人知人から紹介いただき、3年間生きてこられた。営業への苦手意識が拭えない僕にとって、これほど有り難いことはなかった。僕の少ない語彙力ではどうやっても伝えられないのがもどかしいけれど、手を差し伸べてくださる方々の存在には感謝が尽きない。

財団で鍛えてもらっていた時から、僕はただただ、周囲の人に引き上げてもらってきた。丁寧に指導してくださったり、目の前の石を取り除いてくださったり、戦うための武器を紹介してくださったり、周囲の人が敷いてくれたレールに沿って成長して来られた。だから過去を振り返れば振り返るほど、この記事では取り上げることのできなかった数々の恩人も含めて、お礼をお伝えしたいな、有り難かったなという気持ちが湧いてくる。

NOIE QUEST 打ち合わせの様子

勇気と転機

独立1年目は、僕の小さな心が揺さぶられる出来事は大小起こったけれども、1年をならして見てみれば、とても穏やかな船出だった。ただ、順風満帆とは言い難かった。それは、ワークショップの依頼が期待していたよりも少なかったことに尽きる。5月からの7ヶ月で実施したワークショップは15回。それも、ほとんどが年末にかけての開催だった。振り返ってみると覚悟が足りなかった

僕は生活の糧を得なければと焦り、フリーランスを名乗りなんでもします感をPRしていた。つまりワークショップ一本でやっていく勇気が欠けていたのだ。もっと全力で気持ちを込めて「ワークショップデザイナーです!」と名乗るべきだった。自分が何者であるかを明確に示すことはとても重要だ。それができなかった自分を恥じた。ワークショップをやるために独立したんだろう?

転換点になったのが、「大人向けのワークショップはやらないの?」という高校の同級生からの質問だった。僕は当時、若者に向けて自己理解の機会を提供するワークショップを中心としていたので、大人向けの経験は少なかったし、対象として考えていなかった。

「あまり」と答えたら「絶対大人向けにやったほうがいい。相内のワークショップなら求められる!」と太鼓判を押された。突然のことでびっくりした。そもそも彼は、僕のワークショップを見たことがないし、ましてやワークショップそのものにも全く参加したことがなかった。

しかし、彼の目は本気だった。一体僕の何を信じてそう言っているのか理解できなかったが、ただの励ましとは少し質が違った。ここまで言ってくれるんだから感じるものがあるんだろう。僕は彼の助言を信じ、独立2年目に向けて、大人を対象にしたワークショップを増やそうと決めた。そして、ワークショップだけで生計を立てよう。

経験がない分野へ飛び込むには下準備も必要だと思った。大人向けのワークショップに関してはこれまで全く引き合いが無かったのだから、戦い方を考えねばならない。僕はまずWordPressでこのサイトを立ち上げ、ワークショップの情報を発信することにした。記事を読んだ人が反響をくれるかもしれないと思ったからだ。これには財団で鍛えていただいた日本語力がとても活きた。ワークショップのコツや、実施のレポートが増えるたびワクワクした。未来を作っている手応えがあった。

明けて2019年は、ワークショップデザイナーとしての能力を高めるために、青山学院大学ワークショップデザイナー育成講座(WSD)と、LEGO®️ SERIOUS PLAY®️ファシリテータ養成トレーニングを受講することを決めた。僕のワークショップには自信を持っていたけれども、世間からの信頼を得るためには実績や看板が必要だと思ったからだ。同時にCTNのプロコーチコースを受講し、大人向けのワークショップを扱うための準備を着々と進めた。

つい数ヶ月前は口座から2万円が引き落とせなくて震えていたのに、一気に100万円近くを投資することになったのは、自分でもちょっとどうかしていたと思う。でも、突き抜けるためには、勇気をもってアクセルを踏み込むタイミングも必要だ。せっかくお借りできたお金も、手元で寝かせていたのでは変化がない。

結果的には投資が実って、2019年は41回のワークショップを開催できた。半分以上のワークショップが大人を対象としたものになり、学生との比率も見事逆転した。大学時代、蔵王の山中で共に過ごしたキャンプ仲間が、連続10回のワークショップ研修を発注してくれたことがとても大きかった。NOIE QUESTと名付けたこの研修は、東北カイギに次いで、僕の誇れる仕事になった。

WSDでは10名を超える仲間ができ、NPO法人WAKUTOKIの立ち上げにつながった。LEGO®️ SERIOUS PLAY®️は企業研修のエースとして大活躍中だ。

LEGO SERIOUS PLAYのメソッドから『宮古につくりたいもの』を探究するワークショップ8

全ての能力がつながった新天地 Pallet

自信がついた僕は、兼ねてお会いしたいと思っていた(株)Palletの羽山暁子さんを訪ねた。複数の知人から「仙台でワークショップをするなら絶対会っておいたほうがいいよ」とご紹介をいただき、ずっと気になっていたのだ。HPに掲載されている意志の強そうなお写真を一目見て以来、ファンだった。

僕は人見知りだから、知らない人がたくさんいる場ではどう振る舞ったらいいか分からなくなる。だから積極的に外へ出ることは珍しいのだけれど、この時ばかりは出会いを待っていても仕方ないと思い、羽山さん主催のTeal組織勉強会にお邪魔させていただいた。帰り際に「後日お話したいです」とお声がけくださり、慣れないこともたまにはいいなと思った。

羽山さんとお話をしたのは、ほんの1時間半くらいだった。全ての人が、はたらくことを通して自分を活かし、幸せに向かう社会を作りたいと語る羽山さんの目にはハッキリと炎が宿っていた。僕は僕で、人が自由に自分の意図に沿って前進できる世界を実現するという意図でワークショップを続けてきた。お互いの世界観がとても重なっている。

運命だなと感じた。だから最初から一緒になることが決まっていたかのように、すぐにPalletへの参画が決まった。羽山さんは僕の場作りを見ることもなく、ワークショップデザイナーとして契約をしてくださった。同級生の彼にしても、どうして僕の世界には、僕のことを無条件に信じてくれる人が現れ続けるのだろう。粋に感じて気合が入った。

翌2020年はコロナで大変な年だったが、Palletでの組織開発案件とオンラインワークショップを中心に57回の場作りと、30回を超えるコーチングセッションを行った。Palletで実施させていただいた、ビジョンやバリューの策定、マネージャー層のトレーニング、経営方針の策定、チームビルディング等のワークショップは、どれもやり甲斐があり、かつ自分の能力とうまくハマった。

指導いただいた日本語表現、フレームワーク、資料のデザインや、CTNで学ばせていただいたコミュニケーションとコーチング、リクルートでのサラリーマン経験まで、全てが業務に効いたのだ。想像以上のConnecting the Dotsだった。クライアントの皆様からも喜びの声を多く聞かせていただき、ワークショップデザイナー冥利に尽きる1年を過ごさせていただいた。

コロナ禍でも落ち込まず心穏やかに生きられたのは、Palletの素敵なみんなと密にコミュニケーションし、前を向き合えたおかげだ。心地よい良い人間関係と、遺憾無く能力を発揮できる環境に恵まれ、毎日楽しく働かせてもらっていることにもまた、感謝しかない。

人が自由に前進できる社会を実現するための器 WAKUTOKI

2021年1月には、半年以上前から設立に向けて準備を進めてきたNPO法人WAKUTOKIの認可が降り、法人登記を完了することができた。「やりたいことを実現するために、NPOも株式会社も設立するといいよ」と助言をくださったのは、財団を辞める際に相談させていただいた上司だった。それから3年がかかってしまったけれど、マイルストーンの1つとして定めていた目標に到達でき、感無量だった。

WAKUTOKIはワークショップを通じて、自分と出会う機会を提供する団体だ。伊藤洋一さんが『ブレイクセルフ』で自分と向き合う機会についてこう書かれている通り、日常の喧騒の中では、なかなか心の声に気づくのが難しい。

『ブレイクセルフ』より引用

そもそも、普段の生活では、自分と向き合う機会が少ない。自分を見つめる時間が少ない。目の前の仕事に向き合うだけで精一杯だ。そういう日常の中では、自分の心がどんな声を発しているかがわからないのも無理はない。

だから僕たちは安心して自分自身に触れることができる機会をたくさん届けたいと思っている。自分の本当の気持ちに気づいて行動を起こす人が増えれば、この世界がもっと良くなると思うからだ。

僕は、叶えたい目標がある人を小馬鹿にし、石を投げつけ、足を引っ張る、最近の世の中の風潮が嫌いだ。そんなことをする暇があるなら、自分が幸せになるために行動したらいいじゃないかと思う。誰もが自分の目標に向かって行動すれば、そこにはお互いの夢や目標を応援しあえる世界が現れると信じている。

なぜなら僕がいい例で、成長したい、プロのワークショップデザイナーになりたいと決めてから、数え切れないくらいの人々に力を貸していただいた。決して自分一人じゃ到達できなかったからこそ、僕もまた、誰かに力を貸せる人でありたいと思うようになった。僕は、鬱憤と嫉妬が渦巻く「出る杭を徹底的に叩く社会」ではなく、協働と感謝が循環し「自由に前進できる社会」を娘に残したい。

ただ、コロナ禍のど真ん中で、ワークショップを提供する団体を設立する必要があるのか、やや悩んだ。先延ばしにすること、任意団体で活動を始めること、選択肢は様々あったと思う。それでも設立を決めたのは、仲間の一人が「逆張りって面白いジャン」とミーティングで発言してくれたことだった。ぴんと張り詰めた空気が一気に和み、逆境こそ素晴らしい門出だと思えた。乗り越えられたら鉄板のネタになるからだ。

有り難いことに、以前よりお付き合いさせていただいた団体から、設立と同時に大きなお仕事をいただくことができた。そのおかげで、これからの航海はきっと明るいと思えた。

正直に言うと、NPOの手続きを間違ったら嫌だなあとか、みんなの給料を払えるかなあとか、相変わらず羞恥心や恐怖心はある。でも昔ほどじゃない。それを自覚でき、こうして表現できていることがたまらなく嬉しい。

先日、WAKUTOKIの初理事会を開催した。一人の理事、財団時代からお世話になってきた先輩が「いつか本を出す時のために」と記念撮影を提案してくださった。また1つ、楽しみな未来が増えた。

あとがき きっかけは「啐啄同時」から

ダメダメだった僕でも変わることができた、震災からの10年を書かせていただきました。長文をお読みくださりありがとうございました。

僕がこの記事でお伝えしたかったのは、何かのきっかけで人は変われる。いまは苦しかったとしても、未来はきっと大丈夫というメッセージです。全く冴えなかった僕でも、覚悟を決め、人に恵まれ、年月が経ったことで、ガラッと世界が変わりました。だから、きっとあなたも大丈夫

そう伝えるために必要だったのは、身につけるべきスキルの紹介ではなく、レシピの公開。つまり1つの物語を時系列でお見せすることだったと思っています。

そこから「こんな物語もあるのか。だったら今の自分がやっていることも、いつか未来で繋がるかもしれない。今はうまくいかなくても、報われる日が来るかもしれない。」「自分の人生にこの要素を取り入れてみよう」と思っていただければ嬉しい限りです。

最後に何を書き留めておくか悩んだのですが、啐啄同時という禅語を置いておきたいと思いました。もしこの10年をどんな言葉でひとまとめにするかと問われたら、これしかないなと思ったからです。

啐啄同時とは、鳥の雛が卵から出ようと鳴く時と、母鳥が外から殻をつつくのは同時であるという意味です。どちらかのタイミングが悪いと、雛は卵から出てこられません。これは雛の生き死にに限らず、師匠と弟子の関係においても同じことが言えます。

僕にとってこの10年は、出会うべきタイミングで師と出会えた、ご縁の10年でした。もう少し早くても、もう少し遅くても、きっとこの人生にはなっていないでしょう。転がり落ちそうなギリギリのところで、ジャンプしたい少し手前で、僕はたくさんの師に、人生を進める力を授けていただきました。

啐啄同時のタイミングを振り返ってみると、「僕は変わりたい」と自覚することが全ての始まりでした。逆に言えば、それ以外は必要ではなかったと思います。求めよさらば与えられんという言葉の通り、物事を成就するためには、与えられるのを待つのではなく、みずから進んで求める姿勢が大事なのだと思います。

あなたは今、変わりたいですか? もし変わりたいと心から思えたなら、自分をブレイクするチャンスはもう目の前です。僕はそう信じています。

僕自身も、この記事を編集したことで、もっともっと突き抜けて成長したいと思いました。ここまでの10年は絶好の機会をいただき、惜しみない称賛をいただき続けた期間だったと気づいたからです。そのループがとにかく嬉しくて、辛いことも頑張れました。

でもこれからの10年は、僕がこうした役割を果たして行きたいと思ったのです。それがここからの僕に求められる社会への貢献なんだと、執筆を通じて教えてもらえたような気がしています。

次の10年。僕は何を書くことができるようになるのか、とても楽しみです。ぜひ、一緒に進みましょう。

僕に前進のきっかけを作ってくださった全ての方々、この記事を仕立てるきっかけをくださった伊藤羊一さん、10年間ずっと力をくれた2人に感謝を込めて、結びとさせていただきます。

相内 洋輔

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